長野県安曇野市の名所別記事 |
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■メニュー
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※無記入は信濃毎日新聞 |
■安曇野ジャンセン美術館 >>戻る |
2020/7/21 |
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2007.12.14 |
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- ジャンセンの1枚のデッサンとのとてもいい出会いからスタートした美術館。来館者にもいい出会いを提供できる場所でありたい。
- 「ジャンセンの絵は、”暗い”という印象を持つ方が多いようです。しかし、華々しい表の顔だけでなく、他の人たちが見落としてしまいがちな日常の一こまから美しさを見いだし、愛情あるまなざしで描いています」と、館長代理を務める塚原小百合さん。
- 安曇野ジャンセン美術館は、11991(平成3)年に塚原さんの父が長年集めていたジャンセン作品を展示する場としてオープン。
- ピカソ、シャガール後のフランス画壇を支えるジャン・ジャンセン(1920(大正9)年〜)の作品を常設展示する世界初の美術館となった。
- 「美術にもっと興味を持ってほしい」
- 塚原さんは、そのための”入り口”作りに工夫を凝らす。
- 夜間開館はもちろん、ダンスや音楽とのコラボレーションもその一つ。
- 「何かに興味を持って美術館に足を運んでもらえば、そこで作品との出会いが生まれます。いい出会いをしていただきたい−、それこそが私たちの願いです」。
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週刊まつもと |
2007.12.01 |
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2007.09.06 |
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- ダンスイベント「Dance dance Dance! 2days」を開いた。
- モダンダンスの公演とフラダンスのレッスン。
- 「いりぐちはどこだって、はじめたらそれがはじまり」をテーマに新たな切り口で美術館をPRし、楽しんでもらおうと企画した。
- 1日は、モダンダンス。
- 薄暗い館内展示室を舞台に、舞踏家が展示した絵から感じ取ったイメージを体で表現した。
- 静まり返った会場は、舞踏家の呼吸だけが聞こえ、時に激しく、なまめかしく踊る姿は、いつしか観客を異次元の世界へ引き込んだ。
- 2日目は、緑に囲まれた美術館の庭でフラダンス。
- 静かな木漏れ日の屋外ステージで、参加者はレイ(花輪)を首にかけ、講師のまねをして、手や腰を振った。
- 「絵もダンスも1つの芸術であり、表現法。それぞれに込められた思いを体で感じ取ってほしい。イベントを通して、今まで美術館に興味はなかった人も館に足を運ぶきっかけになれたら」と、企画した塚原さん。
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2007.06.20 |
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- 「ジャンセンが視(み)たイタリア」展が開かれる。
- アルメニア出身の画家キャン・ジャンセンが、イタリアのベニス、トスカーナ、アンティコリなどの風景や人物を描いた作品を中心に飾る。
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■拾ケ堰(じっかせぎ) >>戻る |
2020/4/17 |
- 桜とシバザクラ 共演
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2020/2/19 |
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- 「十返舎一九に親しむ会」/『拾ケ堰開削顛末記−序章』
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2019/8/30 |
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- エジプト、タンザニア、ガーナの農業や灌漑(かんがい)開発にかんする政府関係者
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2019/4/19 |
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2018/4/27 |
- シバザクラ色鮮やか
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2018/4/6 |
- 桜とシバザクラ 共演
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2017/7/29 |
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2017/7/26 |
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- 安曇野の農業と観光を支える
- 農業用水を安定供給/観光のツールとして
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2017/4/22 |
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- 各地の桜並木満開
- シバザクラと”共演” じてんしゃひろば
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2017/1/12 |
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- 下鳥羽の有志 古文書解読
- 祝沢(ほうりざわ)上樋(とい)跡に石碑建立
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2017/1/6 |
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2016/12/15 |
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- 国際かんがい排水委員会(ICID)による「世界かんがい施設遺産」
- 本部インド・ニューデリー
- 建設から100年以上たち、設計・施工が当時としては先進的なもの
- 国内外の47施設が登録され、そのうち27施設が日本のもの
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2008.07.30 |
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- 国などが実施した魚類の生息状況調査で、ワカサギが見つかった。
- 調査地点四カ所の内の一つで投網に1匹掛かった。
- 諏訪湖など湖沼に生息し、周辺河川には産卵で遡上するが、「農業用水路での発見例は聞いたことがない」と、県水産試験場諏訪支場(下諏訪町)。
- 市耕地林務課によると、堰に流入する複数の水路も水がないと流れない排水路で、ワカサギが生息しているとは考えにくいという。
- 「流れのある所でこれだけ成長したとは考えられない。他の湖沼から移そうとしても30分ほどで死んでしまう。何らかの原因で偶然いたとしか考えられない」と、諏訪支場の主任研究員。
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信濃毎日新聞 |
2008.07.29 |
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- 小学生ら約50人がイワナのつかみ取りをした。
- 堰を維持管理などをボランティアで担っている住民組織「拾ケ堰応援隊」が、堰に親しみ、大切にする意識を持ってもらおうと毎年企画しており、4回目。
- 約40メートル区間をせき止め、約200匹を放流。
- つかみ取りの前には、護岸に自然石を積んだ「景観重点区間」約300メートルの歩道で草むしりもした。
- 応援隊と拾ケ堰土地改良区が堰の果たす役割や先人の労苦を記したガイドブックも子どもらに配った。
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2008.06.01 |
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- 安曇野最大の農業用水路・拾ケ堰をたたえて、「山に向かって流れる川」という表現を聞いたことがある。
- 高い所から低い所へ、山を背にして下るはずの水流を逆転させたということ。
- 実際、堰の中流部辺りに行くと、水は常念岳に向かってゆったりと流れている。
- 拾ケ堰は、木曽に発する水量豊かな奈良井川から取水(松本市島内)し、梓川を横切って標高570メートルの標高線に沿って烏川まで北流する。
- 安曇野は西山から流れる川によって造られた扇状地が並んでいるから、同心円状の東向き緩斜面の等高線を南から北へなぞると、場所によって西向きに弧を描く。
- これが山と向き合う水流の秘密。
- 完成は1816(文化13)年で、極めて緩やかな傾斜の水路築造を可能にした当時の測量・土木技術の精密さに舌を巻く。
- 拾ケ堰の長さは15キロで、受益面積は900ヘクタールを超す。
- 1ヘクタールを潤すために必要な水路延長は、県平均で100メートル余りだが、拾ケ堰は16メートルと少なく、「非常に効率の良い水田開発だった」。
- 豊科・三郷境の堰脇に県が1995(平成7)年に整えた憩いの場に「安曇野と拾ケ堰」と題する碑がある。
- 「県屈指の米どころ安曇野を形成し、美しい北アルプスの山麓に水と緑の豊かな田園とその文化を拾ケ堰は育ててきた」という碑文。
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市民タイムス |
2007.10.27 |
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- 堰を維持管理している拾ケ堰土地改良区と草刈り作業などをしている住民組織の拾ケ堰応援隊が製作。
- 近年、ごみの投機が目立っており、歴史や役割を住民に伝えて堰を大切にする意識を高めようと企画した。
- 安曇野の地形や地質、当時の工事の様子、現代の維持管理の風景などを解説。
- 堰の清掃作業や草刈りなどの参加者に無料配付するほか、学校の教材としても活用を図る。
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信濃毎日新聞 |
■貞享義民記念館 >>戻る |
2021/4/14 |
- 花のリレー 楽しみ続く
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市 |
2020/3/1 |
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2019/4/24 |
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2019/4/23 |
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- ハの字形の建物は来館者を迎える義民らの両手を表している
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2019/4/6 |
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2018/6/15 |
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MGプレス |
2018/6/7 |
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2018/3/31 |
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2018/1/17 |
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2017/5/20 |
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MGプレス |
2017/4/8 |
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2017/1/19 |
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2016/12/20 |
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- 「今年の漢字」の色紙展
- 「小林雅範コレクション〜世相を象徴する漢字一文字展」
- 貫主に毎年頼んで揮毫してもらった22枚
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2007.11.14 |
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- 演劇 籾は死なず 上演実行委など
- 背景や意義学ぶシンポジウム企画
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- 松本地方の演劇団体などが来年松本市で上演する「籾(もみ)は死なず」をめぐるシンポジウムが「貞享義民記念館」で開かれる。
- 「籾は死なず」は、今年亡くなった安曇野市出身の映画監督熊井啓さんが長年温めてきたテーマで、熊井さんが上演に向けて総指揮を務めていた。
- 貞享騒動は、1686(貞享3)年の中萱(なかがや)村(現在の安曇野市三郷明盛(みさとめいせい))で起きた。
- 凶作が続く中、松本藩が一層厳しい年貢を課したことに抗議し、庄屋の多田加助らが中心となって年貢の軽減を直訴。
- 藩はいったん農民の要求を聞き入れる覚書を出したがすぐに返上させ、加助ら中心人物とその師弟ら28人を処刑した。
- 「あまり知られていない貞享騒動の背景や歴史的意義などを、きちんと学習しようと計画した」と、上演実行委員会代表の松本大学学長。
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信濃毎日新聞 |
2007.03.02 |
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- 1686年(貞享3)に、旧三郷村で、厳しい年貢の取り立てに耐え切れなくなった農民が、松本藩に対して他藩並みの年貢に引き下げるよう訴えた。
- 首謀者は多田加助ら28人。
- 命をかけて生きる権利を訴えたが、処刑された。
- 農民が自分たちで食べる分はほとんどなかったという。
- 多田家跡の周辺は「義民の里」として整備されている。
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市民タイムス |
■常念岳(山頂は松本市) >>戻る |
2019/8/22 |
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- (下)学校登山の移り変わり
- ”常念を見よ −石室102年、受け継ぐ遺志−”
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2019/8/21 |
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- (中)引き継がれる石室
- ”常念を見よ −石室101年、受け継ぐ遺志−”
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2019/8/20 |
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- (上)石室ができるまで
- ”常念を見よ −石室100年、受け継ぐ遺志−”
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- 学校登山の黎明期の1919(大正8)年に、尋常高等小学校の校長と教員たちが、常念岳を世間に広く紹介しようと建設した石室(いしむろ)
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2019/5/19 |
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2008.05.23 |
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- 安曇野市民でつくる「ふるさと常念登山の会」が7月に計画する常念岳(2857m)の市民登山に、英国人宣教師ウォルター・ウェストンゆかりの横浜市(神奈川県)の教会から牧師らが初めて参加する。
- 日本アルプスを世界に紹介した功績を見つめ直そうと同会が呼び掛け、教会側も登山を通じて「先輩」の生き方を知ろうと参加を決めた。
- ウェストンは3回来日し、計13年間日本に滞在。
- 初来日していた1894(明治27)年、常念岳に登頂し、眺望の素晴らしさや地元住民との交わりを記録に残している。
- 2度目に滞在した1902(明治35)年から4年間、横浜市の横浜アンデレ教会に在籍した。
- 窓口役になった日本聖公会横浜教区の山崎牧師(71)によると、ウェストンは登山にのめり込んで牧師の仕事に不熱心だった−という評価が一部の牧師らにある。
- これに対し「登山は休暇を利用しており、仕事に熱心だったのは文献から明らか。誤解を解きたい」と山崎さん。
- それも今回の登山に参加する目的とする。
- 「牧師の皆さんが花を添えてくれてありがたい」とウェストンの常念岳登山を曾祖父が案内した藤原会長(68)。
- 市民登山は、5町村の合併で2005(平成17)年に発足した安曇野市の一体感を広げようと昨年初めて開催。
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信濃毎日新聞 |
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