長野県安曇野市の名所別記事 |
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■メニュー
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■犀川白鳥湖 >>戻る |
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2008.07.05 |
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- 県内のハクチョウ愛護団体
- 餌付け時の着替え・観光客の制限検討
- 「本当に必要?」慎重論も
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- 今春に東北地方や北海道でハクチョウの死骸から強毒性の鳥インフルエンザが検出され、県内のハクチョウ愛護団体が飛来シーズンを前にして対策に頭を悩ませている。
- 餌付け時の靴の履き替えや観光客の接近の制限を検討する団体もあるが、内部に「そこまでやる必要があるのか」との声も根強い。
- 「見えない敵」への警戒とハクチョウへの愛着の間で揺れている。
- 犀川白鳥湖などで越冬するハクチョウを世話している「アルプス白鳥の会」によると、2007(平成19)年-2008年のシーズンは、安曇野市一帯で975羽が越冬した。
- 同会内では現在、対策として会員以外への餌やり自粛の要請、給餌担当者の衣服、靴の着替え、手洗いの徹底などが挙がっている。
- 人間への直接の感染はないとされるが、人が野鳥のふんを付着させて移動すると、鶏などへの感染の危険性が高まる。
- 「餌付けで接近するとふんを踏んだり、ふんが体に付いたりする。着替えや手洗いは最低限必要」と同会の会田さん(59)。
- ただ、同会も対応は固まっていない
- 会合では、会員から「鳥インフルエンザが発生するかどうかも分からない」と意見も出て、対策に慎重な声が大勢を占めた。
- 犀川白鳥湖は、ハクチョウが初飛来した直後の1985(昭和60)年に結成された同会の活動により、越冬地として定着。
- 冬の観光スポットとして全国に知られるようになった。
- 「来る人が減るのは寂しい。どう向き合うべきか、しっかり考えたい」と原とみ子代表(73)。
- 諏訪地方で活動している「諏訪湖白鳥の会」も対策は未定。
- 「少なくとも、訪れた人に直接手を触れないよう注意を促す必要がある」と事務局長(53)。
- 「見に来た人をがっかりさせることは言いにくい」とも。
- 県外では対策を始める地域がある。
- 比内地鶏の主産地、秋田県大館市では2007(平成19)年-2008年の冬、市が餌付けを禁止した。
- 「影響を考えると仕方ないが、冬に感じていた気持ちの潤いがなくなった」と、約20年にわたり世話をしてきた「大館白鳥の会」の事務局長(56)
- 「危機管理は行政の仕事で、行政の指導も必要ではないか」と安曇野市の「御宝田白鳥の会」の会員(75)。
- 「原則として野鳥への餌付けは好ましくない。現時点で指導はしていないが自粛を求める方向で検討している」と、県野生鳥獣対策室。
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信濃毎日新聞 |
2008.04.16 |
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- 安曇野で越冬している白鳥の数が41羽にまで減った。
- 前日までは200羽前後いたといい、まるで桜の咲き始めが合図だったかのように、北へ飛び立ったとみられる。
- 暖冬だった昨年は4月13日に最後の白鳥が飛び立った。
- 今年は4月に入っても300羽以上いて、「花見をしたいのかな」との声も聞かれた。
- 「いなくなるのは寂しいが、いつまでも残っているのも心配だった」と、白鳥の会の会員。
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市民タイムス |
2008.03.16 |
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- 白鳥湖に飛来する白鳥の世話をしている「アルプス白鳥の会」は、白鳥湖に面したえさ場で新年恒例のもちつきをした。
- 白鳥見物に訪れた市民や観光客に振る舞った。
- もちつきはえさの提供者や見物客に感謝しようと1995(平成7)年に始まった。
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信濃毎日新聞 |
2008.01.09 |
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- 安曇野全体で535羽のコハクチョウが飛来。
- 772羽が越冬した昨季とほぼ同じペース。
- 例年1月下旬から2月中旬にかけてコハクチョウの数が最も多くなり、その後北帰行が始まる。
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2007.11.01 |
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- 安曇野に飛来する冬の使者・コハクチョウの数が日増しに増え、県内外から訪れる観光客の数も次第に目立っている。
- 白鳥湖では25羽がシベリア(ロシア)からの長旅の翼を休めている。
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タウン情報 |
2007.10.17 |
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- 6日朝、コハクチョウ1羽が今季初めて飛来した。
- 安曇野一帯の昨季の越冬数は暖冬の影響もあり、その前のシーズンと比べて3分の1の772羽に激減した。
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信濃毎日新聞 |
2007.10.10 |
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- 安曇野に白鳥が飛来する時季が近づき、地元のボランティア団体・アルプス白鳥の会が観察小屋や餌の保管場所を設ける作業をした。
- 昨年7月の豪雨で左岸側の河川敷が削られた中で迎えた昨季と打って変わって、今季は犀川から水をひく農業用水路の復旧によって「(白鳥が羽を休める)よどみが広がりねぐらとなる中州もあって越冬には最高の条件」が整い、会員たちは飛来を心待ちにしていた。
- 準備作業では、トラックの荷台に載せた観察小屋「白鳥観察館」を岸辺に設置した。
- 餌やり場を従来の場所から100メートルほど上流に移して、その近くに餌を保管するビニールハウスも造った。
- 会では白鳥の餌となるくず米の提供も求めている。
- 安曇野への白鳥の初飛来は昨年が10月14日、一昨年は12日で、平均だと19日。
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市民タイムス |
2007.06.07 |
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信濃毎日新聞 |
2006.08.29 |
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市民タイムス |
2006.02.12 |
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- 定年退職後、地元のボランティア団体「アルプス白鳥の会」に入会。
- 以来12年、近くの自宅から朝、昼、夕の3回、毎日欠かさず訪れる。
- 会員と手分けして、1回に与える餌は米や麦15キロ。
- 「白鳥かあちゃん」と呼ばれ、2003年(平成15)から代表。
- 1984年(昭和59)に56羽が初めて飛来した。
- 犀川にはヨシやコケなど自然の餌が少ないが、会員の世話により飛来数は増加。
- 3年前には安曇野全体で千羽を超えるようになった。
- 今季は、倍以上の2400羽と異例。
- 「北陸の越冬地が記録的豪雪となり、餌を求めて飛来したのでは」と思う。
- 増えすぎて、麦畑が荒らされる被害もあり「歓迎できる現象ではない」。
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朝日新聞(東京多摩版) |
2004.10.15 |
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信濃毎日新聞 |
■市役所 >>戻る |
2021/1/7 |
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2019/5/17 |
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信毎 |
2019/5/16 |
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2019/5/4 |
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- 安曇野市豊科出身
- 「めえめえ児山羊(こやぎ)」を作詞
- 市役所北東側に歌碑がある
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2019/4/21 |
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- 基本設計にあたった共同企業体の代表は、安曇野ちひろ美術館を手掛けた建築家・内藤廣さん
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2018/11/20 |
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2017/5/23 |
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タウン情報 |
2017/1/21 |
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- 毎週無料で「囲碁」ラウンジ
- ”松本平 芽吹く集いの場”
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信毎 |
■早春賦歌碑公園 >>戻る |
2019/4/30 |
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2019/3/20 |
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2018/4/30 |
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2017/4/30 |
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2008.04.30 |
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- 安曇野に春を告げる第25回「早春賦まつり」が29日、歌碑前で開かれた。
- 青空に北アルプスの山々が映える絶好の天気の下、子供たちのチャイム演奏でまつりの幕を開けた。
- サクラさんとディーバさんは3世代が共に歌うステージに登場し、日本語の歌詞にともどうことなく歌いきった。
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市民タイムス |
2008.04.29 |
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- 「早春賦まつり」に出席するため、孫のディーバさん(12)を伴い25年ぶりに安曇野を訪れたサクラさんは、「次は安曇野の人たちにインドネシアに来てもらい、共に早春賦を響かせたい」と夢を語った。
- (※同じ新聞の記事で20日付と29日付でディーバさんの年齢が違う)
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2008.04.20 |
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- 歌支えに生き抜いた人生
- 作詞者の孫・インドネシア人
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- 第25回「早春賦まつり」に「早春賦」の作詞者・吉丸一昌(1873(明治6)年-1916(大正5)年)の孫。
- でインドネシア人のサクラ・ナルカヤさん(62)が訪れることが決まった。
- 今回は、サクラさんの半生を振り返るドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌−Diva早春賦を歌う」に出演する、サクラさんの孫娘・ディーバさん(13)が初めて安曇野を訪れる。
- 戦争時の落とし子であるサクラさんは、一昌の二男である父親捜しに半生を注いだ。
- スマトラ島を襲った大津波では親族や家財を失うなど波乱万丈の人生を、春を待ち望む「早春賦」を支えに生き抜く。
- 当日は早春賦歌碑前で、地元の合唱団らとともに亡き祖父が残した「早春賦」を歌う。
- ディーバさんは将来、日本への留学を希望しており、市内の中学校で授業風景を見学する計画もある。
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2007.04.30 |
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2007.04.29 |
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2007.04.24 |
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タウン情報 |
2007.04.21 |
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- 1月1日、サクラさんが営むホテルに大勢の人だかりができた。
- 穂高の「早春賦」歌碑の拓本から造られたモニュメントの除幕式。
- ディーバさんたちが、この日のために練習を重ねた「早春賦」を歌うシーンが映画のクライマックスとなる。
- 少女たちに歌声に、大町市で収録された「早春賦千人大合唱」の壮大な歌声が重ねられる。
- 吉丸昌昭は、貧しい下級武士の子に生まれ苦学を重ねた。
- 自宅の私塾で地方出身の恵まれない若者の面倒を見て、日本初の夜間中学校も開いた。
- 昌昭さんは「祖父が早春賦に込めた真の願いは何か」という答えを心に秘めて映画を作った。それは「春を待つことは希望を失わずに生きるということ」。
- 2年に及んだ撮影は、サクラさんの人生を通して、その答えを確かめる取り組みでもあった。
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市民タイムス |
2007.04.19 |
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- 2004年(平成16)12月26日、インドネシア・スマトラ島西沖でマグニチュード9.3の地震が発生した。
- その後起きた巨大津波はインド洋沿岸を次々に襲い、サクラさんが住むバンダアチェの街をもろとも飲み込んだ。
- ニュースは「バンダアチェが地上から完全に姿を消した」と伝えていた。
- 消息不明の1カ月後、サクラさんは災害時、シンガポールで入院していて幸いにも難を逃れたことがわかった。
- だが、津波は海岸から3キロ離れた鉄筋コンクリートの自宅を大破し、5歳の孫をはじめ親族の命を奪った。
- 昌昭さんはテレビ番組やCMを制作する制作会社に入って世界中を飛び回っていた。
- 以前から祖父と「早春賦」の顕彰がライフワークだった昌昭さんだが、今回のドキュメンタリー映画を撮るきっかけは、2004年(平成16)10月のサクラさんの夫の訃報だった。
- 「異国で暮らすいとこの半生を記録する『サクラの戦後60年』を作ろう」との思いを抱き、企画、制作準備を進めていたころに津波の惨事は起こった。
- 昌昭さんは外務省が渡航自粛地区としていたバンダアチェに入った。
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- その風景は「まるで原爆が落とされた跡だった」。
- サクラさんが家宝として居間に飾っていた早春賦歌碑の拓本も流された。
- 諸外国の救援隊でごった返すメダン空港で、サクラさんは昌昭さんに会うなり言った。
- 「インドネシアのことを忘れてなかったのですね」。
- その一言は昌昭さんに、あきらめかけていた映画の制作続行を固く誓わせた。
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2007.04.17 |
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- 安曇野で春を待ちわびる心を歌ったとされる「早春賦」にまつわるドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌−Diva早春賦をうたう」が完成。
- 主人公は大津波の爪痕が残るインドネシア・スマトラ島に暮らすサクラ・ナルカヤさん(61)で、早春賦を作詞した吉丸一昌(1873年(明治6)-1916年(大正5))の孫である。
- 映画は同じく一昌の孫である東京都調布市の吉丸昌昭さん(67)が2年をかけて制作した。
- 昌昭さんは青少年時代を旧三郷村(現、安曇野市)で過ごした。祖父が偉大な教育者で「早春賦」の作詞者であることは聞かされていたが、自分が生まれた時は既にこの世を去っていた。
- 大町高校(大町市)に入学した日、校歌の作詞者が祖父であると知り、「初めて親近感を覚えた」という。
- インドネシア・スマトラ島北端のバンダアチェでは自分の父親を捜す少女がいた。
- 名前はサクラ。
- 終戦間際、元日本兵と現地女性との間に生まれた。
- 父は終戦後、メモを残して日本に引き上げた。
- 「私の名は池尻昌言。この娘はサクラと命名する。戦争に負けやむなく日本に帰るが必ず戻ってくる」
- サクラさんは物心ついたころから、「自分の名がなぜ日本名か。なぜ父親がいないのか」と疑問を抱き、母親を悩ませた。父親探しは7歳から始まった。
- 日本人商社マンが訪れるたびに「パパを探して」と懇願したが、まともに受け止める人はいない。
- 捜し始めて20数年たった1974年(昭和49)に、バンダアチェに駐留していた戦友会22人が戦跡訪問のため訪れた。
- その中の一人に父が残したメモを渡した。
- 帰国後すぐ高崎市役所の記者クラブで会見を開いた。
- サクラさんの願いは、毎日新聞の全国版に「父の『池尻』捜して」という見出しで報じられた。
- その日、東京の昌昭さんの実家では、この記事をめぐる大騒動が起きた。
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2007.04.16 |
- 桜に北アルプスとワサビ田
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- 穂高川沿いに点在する見ごろを迎えた桜並木の背後には残雪の北アルプスの山並みが望め、すぐ南側には青々としたワサビ田が広がっている。
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2019/11/1 |
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2019/10/31 |
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信毎 |
■征矢野久(ひさ)水彩館 >>戻る |
2021/2/1 |
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市民タイムス |
2020/3/10 |
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2020/3/5 |
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2018/8/4 |
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