人物
徳川家康 とくがわ いえやす
  • 江戸幕府初代将軍で、日本の歴史上最も重要で有名な人物といえるかもしれない。
  • 1542(戦国時代)〜1616(江戸時代初期)
  • 三河(愛知県東部)の岡崎城(愛知県岡崎市)城主、松平広忠(ひろただ)の子として同城で生まれる。
    • 幼名は竹千代(たけちよ)で、これは、三河統一の途上で暗殺された祖父清康(きよやす)の幼名にちなむという。
      • 松平氏は清康(祖父)の死で弱体化したため、広忠(父)は生きのこるため、東から三河を侵食してくる大勢力の今川義元に属していた。
      • 跡継ぎ(嫡子(ちゃくし))の竹千代は人質として駿府(すんぷ現、静岡市)の今川氏のもとに送られることとなった。
      • しかし、義理の祖父にあたる戸田康光が織田方に心変わりしており、康光に奪われて織田信秀のもとに送られてしまった。
    • 織田氏のもとでの人質時代が続く中、1549年、父の広忠は今川氏の後援で攻勢に出るが陣中で暗殺される。
      • 主を失った松平氏は壊滅同然となり、岡崎城には今川氏の城番が入って今川氏に帰属することになる。
      • 今川氏はさらに三河支配を進めるため、安祥城を攻めて織田信秀の子で城主の信広を捕え、竹千代との人質交換を行う。
      • このため、竹千代は今度は駿府城での人質生活をおくることになる。
  • 1555年(弘治元)、竹千代は元服して松平次郎三郎元信と称し、1557年には今川氏重臣の関口義広の娘の築山殿(つきやまどの)結婚し、この頃に元康と改名する。
    • 元康は今川氏属下の一武将としての道を歩み、1560年(永禄3)には尾張に侵攻した今川義元の先鋒(せんぽう)として大高城(おおたかじょう:名古屋市緑区)への兵糧(ひょうろう)搬入に成功して守衛についたが、義元が桶狭間の戦で敗死したことで生涯の転機を迎える。
      • 元康は人質の身を脱して、今川氏の兵力が引き揚げて空城となった岡崎城へ帰還し、旧松平族党の人心掌握に努める。
    • 翌1561年、水野信元の仲介で織田信長と和睦する。
      • この協定で両者の境界が画定し、以降は織田は西へ、松平は東へ攻めることと、そのときに自力におよばないことがあれば、たがいに加勢することが定められた。
      • 西の脅威を取り除いた元康は西三河を掌握する。
  • さらなる飛躍のため、信長との提携を強め、1563年、長男の信康と信長の娘の徳姫との婚約をとり結んだ。
    • このころ名を家康と改めた
    • 1563年秋、東三河に兵を進めようとする家康に、西三河で一向一揆の危機が襲う。
      • これまで苦難にたえて結束してきた松平氏の譜代家臣も、信仰と主従関係の対立から分裂する事態となったが、家康自ら槍をとって奮戦し、翌64年の春ころには一揆の鎮圧に成功した。
      • 一向一揆を克服した家康は、土豪層を家臣団として編成し、その後は順調に父祖以来の悲願である三河統一を成功させた。
  • 1566年、朝廷に奏請して従五位下三河守に任じられて三河統一を天下に宣言する。
    • このとき旧姓といわれる徳川氏に復姓する。
    • 1569年、家康は兵をすすめて今川氏真(うじざね)を掛川城(静岡県掛川市)から排除、遠江半国を制圧する。
    • 翌1570年(元亀元)、これからの遠江支配のためには旧来の岡崎では西すぎたため、遠江国引馬(曳馬:ひくま)に居城を移し、同地を浜松と改称する。
    • 1572年、武田信玄が大規模に兵を動かして遠江と三河に侵入してきたため、家康は遠江三方原で迎え撃つが大敗北に終わる。
      • このときは信玄の死去で難を逃れたが、その後も、信玄の子武田勝頼による三河と遠江の侵入がつづき、要衝の高天神城(たかてんじんじょう:静岡県掛川市)を奪われる。
    • 1575年(天正3)、勝頼が三河に侵入すると、信長とともに迎え撃ち、長篠の戦で勝利する。
      • これで武田氏が壊滅したわけではなく、その後も遠江東部を中心に勝頼との軍事的緊張がつづいた。
      • この軍事的緊張は、1579年、妻の築山殿を処刑し、長男の徳川信康を自殺させるという悲劇を生む。
    • 1581年に高天神城を奪取して遠江をほぼ平定する。
    • 翌1582年、信長の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、恩賞として駿河を与えられる。
    • 本能寺の変が起きると、畿内で敵に討たれる危機を脱して帰国、甲斐および信濃に兵を出して後北条氏と対陣する。
      • やがて後北条氏と和睦がなり、結果として甲斐と信濃を手に入れる。
    • 家康が甲斐と信濃の経営をすすめる間に、中央では羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀、ついで柴田勝家をたおして台頭し、天下統一の道を歩み始めていた。
      • 1584年、信長の2男の信雄の要請に応じて秀吉と小牧・長久手の戦を行い勝利をおさめるが、信雄が屈服したため兵をおさめた。
      • その後は秀吉との外交戦がつづき、家康は次子の秀康を秀吉の養子として送ることを承認したが、自らの上京は断る。
    • 翌1585年、関白となった秀吉のもとに重臣の石川数正が出奔するという事態を招くが、軍法を改正して家臣団を再編成することで、危機を乗り切る。
      • 1586年、秀吉が異父妹の朝日姫を家康に嫁がせ、さらに母の大政所(おおまんどころ)を朝日姫の介添えに浜松に送ることを申し出たため、ようやく上洛し、秀吉と会見するに至る。
    • 秀吉に臣従しながらも、政権下での独自の位置を認めさせたこの年、家康は手にしてまもない領国経営のため、居城を駿府に移す。
      • 1589年、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国に定書(さだめがき:朱印状)を発令し、領国の支配体制を強化する。
    • 1590年、秀吉の小田原攻めに従い、後北条氏の滅亡によって関東へ移封されて江戸城に入る
      • この移封のとき、先祖伝来の地から切りはなされる家臣の多くは悲嘆したが、家康は新領国で多数の兵を養えるのだから、恐れることはないと励ましたと伝えられる。
      • 250万石を領する、秀吉政権下で最大の大名として重きをなし、文禄・慶長の役では渡海せず、領国経営につとめる。
      • 1596年(慶長元)、内大臣に昇進し、のち設置された五大老の筆頭として秀吉死後の政務をとりしきる。
    • 1600年(慶長5)、関ヶ原の戦に勝利すると、所領の没収や、減知転封と加増転封により全国的規模で大名たちの移動を果たし、権力が誰の手にあるかを知らしめた。
  • 1603年、天皇によって征夷大将軍に任じられ、全国の武家に君臨する権限を獲得し、江戸幕府を開く
    • 1605年、その職を跡継ぎの徳川秀忠に譲りゆずり、豊臣氏が依拠した関白とは別の権威を徳川氏が世襲、独占し、徳川氏がこの権威を頂点として新しく秩序を構築することを全国に示したのである。
    • 秀忠に将軍職をゆずって隠居の体裁をとってはいたが、全国統治の実権はにぎりつづけた。
    • 1614年の大坂冬の陣をへて、翌15年(元和元)の大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させる。
      • 武家諸法度、禁中並公家諸法度を公布すると、徳川の天下安泰を確信したかのように1616年に死去する。
  • 参考:エンカルタ2007
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