人物
本田忠勝 ほんだ ただかつ
  • 徳川家康の有力部将で、江戸初期の譜代大名。
  • 1548(戦国時代後期)〜1610(江戸時代初期)
  • 通称は平八郎。
  • 榊原康政、井伊直政、酒井忠次とともに徳川四天王といわれた。
  • 誕生の翌年に父が戦死したため、幼いときから徳川家康に仕(つか)えた。
    • 諸戦に参陣したが、まだ満12歳でありながら実戦に加わりたがり、家康をてこずらせた。
      • 家康はまだ早いといって忠勝をなだめ、常に側近くにおいていたらしい。
    • 以後、数々の合戦に参加し、華々しい功績をあげた。
      • しかも、生涯57度の合戦に勇戦しながら、その身に一筋の傷も受けなかったと伝えられる。
    • 1582(天正10)年(安土桃山時代)本能寺の変のとき、和泉国堺(現、大阪府堺市)にあって去就に迷う家康を三河の岡崎城(現、愛知県岡崎市)へ無事帰還させた。
  • 敵だった甲斐の武田軍団からは「家康にすぎたる物がふたつある、唐(から)の頭(かしら)(兜(かぶと)の飾りのこと)に本多平八」と称(たた)えられた。
    • その武功話は枚挙にいとまがなく、織田信長からは「忠勝は花実兼備の武士」と、豊臣秀吉からは「日本第一、古今独歩の勇士」と賞賛されたという。
  • 参考:エンカルタ2007
2012.01.28

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