中国の歴史 |
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-4800 |
仰韶文化(彩陶文化) |
- 彩文土器(彩陶)を特徴とし、後に黒陶を特色とする竜山(ロンシャン)文化に発展する。
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縄文時代 |
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-2000 |
夏王朝 |
- 伝説では「夏」という王朝があったとされるが、考古学上は確認されていない。
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-1600 |
殷 |
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- 占いの結果を記録するために用いられた「甲骨文字」は、その後、書体の変遷をへて「漢字」へと発達した。
- 「青銅器」の製造技術も発展した。
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-1100 |
周 |
- 前11世紀 「周」が「殷」を滅ぼす 封建制度 青銅器文化発達 井田法(せいでんほう) 宗法制度
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- 「封建制度」:
- 王から領地を与えられた諸侯は、王に服従し、貢納と従軍の義務を負った。
- 「井田法(せいでんほう)」:
- 農地を9等分して、8区画に農民を生活させ、中央の1区画の収穫を税としてとる。
- 「宗法」制度:
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-800 |
- 前8世紀前半 「周」は首都の鎬(現、西安市西郊)を追い出され、都を東の洛邑(らくゆう:現、洛陽)に移した。
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-770 |
春秋時代 |
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- 前770〜前403 「東周」の内のこの時期を「春秋時代」と呼ぶ。
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-551 |
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-479 |
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-403 |
戦国時代 |
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- 前403〜前221 「東周」の内のこの時期を「戦国時代」と呼ぶ。
- 春秋から戦国時代にかけて鉄器が作られるようになる。
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- 有力な諸侯が自ら王を名乗って、激しく争うようになる。
- 特に有力だった秦、楚、燕、斉、韓、魏、趙(ちょう)の7国を「戦国の七雄」と呼ぶ。
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-400 |
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- 前4世紀 戦国時代に西の辺境に存在した「秦」は、政治・経済・軍事制度の改革に着手し、急速に強国になった。
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- 不安定な社会の中で、その後2000年の中国の歴史に大きな影響を及ぼす政治制度や社会思想が作られていった。
- 富国強兵のために、諸侯や王が競って有能な人材を集めたことから、産業、思想、学術が発達し、「諸子百家」と呼ばれる多くの思想家と様々な学説が生まれた。
- 孔子:
- 「仁」の思想をもとに、「孝」や「悌(てい)」の家族道徳を重んじた。
- →道徳的にすぐれた人々が役人となって人民を導き、社会を安定させようと説く孔子を祖として「儒家(→儒教)」の思想がつくられた。
- 老子、荘子:
- 「道家(→道教)」は、人為的で形式的な儒家の道徳を批判し、ありのままの自然が理にかなうと説いた。
- 韓非子:
- 「法家」は法律や賞罰を厳密にし、経済活動を統制し、権力を君主に集中することによって国家をおさめる術(すべ)を説いた。
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弥生時代 |
- 日本は「漢書」によれば100余りの小国に分かれていたが、朝鮮に置かれた「漢」の楽浪群に使節を送っていた。
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-232 |
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- 項羽 生 前232-前202 「劉邦」と天下を争う。
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-221 |
秦 |
- 前221 「秦」は中国の史上初めて統一王朝を建てた。
- 国王「政」は新たに皇帝という称号を作り、「始皇帝」と名乗った。
- 「秦」から、英語のチャイナという言葉が生まれた。
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-213 |
- 前213 焚書坑儒:医薬、占い、農業関係以外の書物を焼き捨てたり、翌年、統制を批判する学者を生き埋めにした。
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- 文字の統一をはかって全国に小篆(しょうてん)という書体を普及させ、交易を促進するために国内の道路を整備し、度量衡や貨幣などを統一した。
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-210 |
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-202 |
前漢(中国では西漢と呼ぶ) |
- 前202 農民出身の「劉邦」が「楚」の武将「項羽」を破って全国を統一し、都を「長安」(現、西安)にて「漢」(前漢。中国では西漢と呼ぶ)を建てた。
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- 漢代に発明された「紙」の製法は、後にイスラム世界を通じてヨーロッパにも伝えられた。
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- 項羽 自ら首をはねる。
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- 敵に囲まれたとき、敵陣から故郷「楚」の歌が聞こえ、敗北を悟る。
- このことから「四面楚歌」の言葉が生まれた。
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-200 |
- 前2世紀 「武帝」の頃には、全国を郡県制で支配する体制がほぼできあがる。
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-141 |
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- 「官学」となった「儒学」は、専制王朝の支配を裏付ける思想として、その後の歴史に受け継がれた。
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-87 |
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8 |
新 |
- 8 外戚の「王莽(おうぼう?)」が「漢」から帝位を奪って新王朝をたてた。
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25 |
後漢(中国では東漢) |
- 25 「王莽」に対する諸反乱の中で、漢室の一族と称する「劉秀(光武帝)」が台頭し、豪族たちに推されて「洛陽」に都をおき、「漢」を復興した。
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- 西域遠征により、カスピ海に至る西域の50余りのオアシス国家を服属させ、ローマの東方領域にまで使者を送った。
- オアシス国家を結ぶシルクロードが発達し、これを通じて東西貿易や文化交流が盛んになった。
- 「秦・漢」400余年の間に、皇帝を頂点とする官僚組織が定型化され、「漢字」や「漢民族」などの言葉にみられるように、中国独自の文化の形がほぼ確立した。
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- 「後漢」の初めには「倭(わ)の奴国(なこく)」の王が、洛陽に朝貢の使者を送っており、江戸時代に九州で発見された金印(委奴国王印)は、「光武帝」から与えられたものと考えられている。
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101 |
- 2世紀 外戚の権力闘争、官僚の派閥争い、宦官の政治介入などで政治の混乱が続く。
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151 |
- 2世紀後半 政治闘争や華北の「黄巾の乱」、四川の「五斗米道の乱」など大規模な農民反乱が各地で起きる。
- 豪族たちも後漢から離れ、皇帝の権威は名ばかりとなった。
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181 |
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220 |
三国時代/五胡十六国時代/南北朝時代 |
- 220〜265 後漢末の諸反乱を、私的な軍事力を拡大していた武将「曹操」が華北一帯を支配し、その息子「曹丕(そうひ)」が、後漢最後の皇帝「献帝」から帝位を譲り受けて「魏」をたてた。
- これに対抗して江南には「孫権」が「呉」を、四川には「劉備」が「蜀」をたてて「三国時代」を迎える。
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221 |
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- 劉備 在位221-223 「三国時代」の「蜀」の創建者
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223 |
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234 |
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265 |
- 265〜316 「魏」の武将「司馬炎」が「魏」を倒して「西晋」をたてた。
- 西晋は匈奴に滅ぼされ、北方から多くの民族が入ってきて各地に王朝をたてる「五胡十六国時代」になる。
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古墳時代 |
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317 |
- 317 滅亡した「西晋」の一族が江南に逃れて「建康(現、南京)」を都として「東晋」をたてた。
- その後、江南には「宋」など4つの王朝(南朝)が次々に交代した。
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386 |
- 386-534 華北で「五胡」の一つの「鮮卑」が「北魏」をたてる。
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420 |
- 420 南朝の「宋」が建国される。
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- 「北魏」は「宋」と対立、これ以降を「南北朝時代」という。
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- 漢代に西域から伝えられた「仏教」が急速にひろまる。
- 仏教は「南朝」では貴族を中心に信仰される。
- 「北朝」では王朝の権力と結びつき、敦煌、雲岡、竜門などに大規模な石窟寺院がつくられはじめる。
- 不老長寿と現世の利福を説く「道教」が宗教として成立し、民衆の間に広まった。
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581 |
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589 |
隋 |
- 589 北朝から出た「隋」の文帝(楊堅)が、長安(現、西安)に都をおき、再び中国を統一した。
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- 「文帝」は、「律令」を定め、土地制度では「均田制」、軍事面では農民を兵士とする「府兵制」を敷き、中央集権につとめた。また、学科試験によって官僚を採用する「科挙」を始めた。
- 「文帝」と「煬帝」は、物資の豊かな江南と政治・軍事の中心地華北を結ぶ大運河を建設した。
- 「万里の長城」の大規模な改修をすすめた。
- 大土木事業や朝鮮への高句麗への3度に及ぶ遠征などで、農民の生活を苦しめ、各地で反乱が発生する。
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601 |
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飛鳥時代 |
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602 |
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- 玄奘 生 602-664 「西遊記」の「三蔵法師」のモデル。
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604 |
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- 604 文帝 没 次男2代目煬帝に暗殺されたともいわれている。
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618 |
唐 |
- 618 「煬帝」が殺され「隋」は30年で滅亡する。
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- 「唐」の基盤は「高祖」とその子太宗(李世民)の時期に築かれ、領土は「漢」をしのぐ大きさとなり、西方のイスラム帝国と拮抗する大帝国となった。
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630 |
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- 630年を第1回とし、7〜9世紀「遣唐使」が15回ほど送られた。
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645 |
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664 |
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685 |
統一新羅時代 |
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690 |
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701 |
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- 「則天武后」が皇帝となって国号を「周」と改め、唐王朝を中断させる事件が起きたが、8世紀の前半に、「玄宗」が繁栄を回復した。
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712 |
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奈良時代 |
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719 |
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756 |
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772 |
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845 |
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平安時代 |
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907 |
五代十国 |
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- 907 「唐」は反乱が起きる中、節度使(募兵集団の指揮官)「朱全忠」に滅ぼされる。
- 「唐」滅亡後、華北には約50年の間、5つの王朝がめまぐるしく交代し、他の地方にも10余りの国が興亡した。この時代を「五代十国」という。
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960 |
宋(北宋) |
- 960 節度使のひとりだった「趙匡胤(ちょうきょういん:太祖)」が「宋(北宋)」をたて、河南の「開封」に都を定めて全国を統一した。
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- 文治主義:文人官僚による支配の仕組みを強化→官僚の増加や行政の複雑化をもたらし、軍事力の弱体は周辺民族からの圧迫をいっそうまねくことになった。
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1127 |
南宋 |
- 1127 12世紀初めに、東北地方にツングース系の「女真族」が台頭して「金」(1154-34)を建国すると、「宋(北宋)」は「金」と結んで「遼」を滅ぼしたが、その後「金」が華北を圧迫するようになり、宋の皇族の多くを捕らえて「北宋」は滅亡。
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- 江南に逃れた皇族が「臨安(現、杭州)」に都をおいて「南宋」をたてた。
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- 地主は所有する農地を「佃戸」とよばれる小作人に耕作させ、収穫の半分を取り立てた。
- このような土地制度は、中華民国の時期に至るまで、中国社会の基本的な仕組みとして存続した。
- 江南の開発は大幅にすすみ、「蘇湖(太湖を囲む蘇州・湖州一帯の地域)熟すれば天下足る」という言葉にみられるように、長江下流域が経済の中心になった。
- 米の裏作として小麦などを栽培し、年2回穀物を収穫するようになった。
- 石炭を使う鉄の精錬法が開発されて鉄製農具の大量生産がすすむ。
- 貨幣経済の発達。
- 「朱子」によって専制君主制を支える理論「朱子学」が大成される。
- 「景徳鎮」など各地ですぐれた磁器が生産される。
- 木版印刷が普及し、火薬や羅針盤などの科学技術が進歩した。
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1130 |
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1185 |
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鎌倉時代 |
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1200 |
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1206 |
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- 1206 チンギス・ハーン モンゴル帝国即位 在位 1206-1227
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1227 |
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1260 |
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1271 |
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1274 |
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1279 |
元 (モンゴル帝国の支配) |
- 1279 中央アジアから南ロシアを含むモンゴルの大帝国を建設した「チンギス・ハーン」の孫「フビライ・ハーン」が、帝国の首都をカラコルムから大都(現、北京郊外)に移し、宋の制度にならって中国風に国号を「元(1271-1368)」とし、南宋を滅ぼして中国全土を征服した。
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- モンゴル帝国の形成によって中央アジアの交通ルートは安全になる。
- ベネツィアの「マルコ・ポーロ」は長くフビライに仕え、後に「東方見聞録」を著して、元の繁栄をヨーロッパに伝えた。
- 元はモンゴル人第一主義をとって、儒学の教養を持つ漢人の官僚を軽視した。
- 宮廷ではラマ教(チベット仏教)が盛んになって、各地に多額の国費をつぎ込んで寺院が建立された。
- 日本(元寇)、ベトナムジャワなどへの遠征が繰り返された。
- 寺院の建立や度重なる遠征で莫大な出費をまかなうため、紙幣が大量に発行され、その結果、インフレで元の財政は破綻した。
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1281 |
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1294 |
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1295 |
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1337 |
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室町時代 |
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1368 |
明 |
- 1368 元末に起きた「紅巾の乱」の指導者のひとり「朱元璋(太祖洪武帝)」は、各地の反乱を鎮めながら、「応天府(現、南京)」を都として「明」をたてる。
- その後、「大都」(現、北京)を制圧してモンゴル勢力を北方へ追い払った。
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- 宰相の制度をやめて皇帝が官僚機構と軍隊を直接支配することにした。
- 農民は税をとる「民戸」と兵士を出す「軍戸」とに分け、「民戸」には「里甲制」をしいて、「魚鱗図冊」と呼ばれた土地台帳や「賦役黄冊」と呼ばれた租税台帳を兼ねた戸籍簿をつくり、徴税の徹底をはかった。
- 儒教の徳目を示して人民を教化するために、父母に対する孝順や、年長者への尊敬など六カ条の教訓(六諭)を定めた。
- 中国史上最強といわれる独裁体制が成立した。
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1398 |
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1398 洪武帝 没 |
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1401 |
- 1401 クーデター(靖難の変)で帝位についた「永楽帝」は都を「北京」に移した。
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- しばしばモンゴル高原へ遠征させたり、大艦隊(全長150mもある船)で何度も南海遠征を行なわせた。
- 遠征はアラビア半島、アフリカの東岸まで達し、これによって多くの国々が明に朝貢するようになった。
- 紫禁城(現、故宮)が造営される。
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- 永楽帝 即位 在位1401-1424
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- 洪武帝の第4子で、北平(現、北京)の王に任じられていたが、洪武帝の孫の2代皇帝が、諸国の勢力削減を行なおうとしていたので、先手を打って、クーデターを起こし帝位を奪った。
- 漢人の皇帝としては史上ただ一人、自ら大軍を率いて5度も遠征を行なった。
- 血縁や官僚を信じず宦官を重用した。そのため宦官は次第に政治上の発言力を増し、やがて明朝政府を腐敗させる原因となった。
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1424 |
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1424 永楽帝 モンゴル遠征の帰途に没 |
室町時代 |
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1449 |
- 1449 永楽帝の死後は次第に北方民族の圧力を受けるようになり、土木堡(どぼくほ)でオイラトが明軍を破り、皇帝英宗を捕らえるという事件が起きる。
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- タタールも北方からの侵入を繰り返し、沿岸地方では、「倭寇」による略奪が激しくなった。
- 明はこの「北虜南倭」に苦しみ、次第に衰えていった。
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1453 |
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1557 |
- 1557 16世紀初めに渡来したポルトガル人が、通商の拠点としてマカオの居住許可が与えられる。
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1572 |
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1600 |
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江戸時代 |
1600 |
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1616 |
- 1616 明の衰えに乗じて東北地方で勢力を拡大した女真族(満州族)は、「ヌルハチ(太祖)」が「後金」を建国し、次の「ホンタイジ(太宗)」のとき、国号を「大清」と定めた。
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- 1616 ヌルハチ(太祖) 「後金」 即位 在位1616-1626 「清」建国の基礎をつくった。
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1620 |
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1626 |
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- ホンタイジ 即位 在位1626-1643 国号を「大清」に改め、民族名を「満州」(マンジュ)とした。
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1639 |
清 |
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1644 |
- 1644 「李自成」率いる大規模な農民反乱により、「明」は北京を占領されて滅亡する。
- 「清」は山海関を守っていた「呉三桂」らの明軍の協力を得て、反乱の討伐を名目に華北に軍を進め、「李自成」を追い払って北京に政権をたてた。
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- 多数の漢人を支配するため、反清思想の弾圧、「辮髪」の強制など、強圧策をとる。
- 一方、儒学にもとづく伝統文化を保護し、科挙制度を整備する政策をとった。
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1661 |
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- 1661 康熙帝 即位 在位1661-1722
- 8歳で即位して以後60年以上在位し、清朝の全盛期を築いた。
- 晩年、後継者問題に苦しめられ、第2子を皇太子にたてながら非行が多いため、2度も取消し、そのため、臨終の床でようやく第4子を次の皇帝に指名した。
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1700 |
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1700 |
1722 |
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1735 |
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- 1735 乾隆帝 即位 在位1735-1795
- 25歳で即位して以後60年間在位し、康熙・雍正帝とともに、いわゆる「康熙・乾隆時代」と呼ばれる清の全盛期をきずいた。
- 晩年、和'王申'(わしん)が権臣として政治を私物化するといった、清朝衰退の兆しが現れた。
- 康熙帝の在位年数を超えるのを遠慮して退位した。
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1835 |
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1840 |
- 1840 イギリスは艦隊を派遣して「アヘン戦争」をしかけた。
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- イギリスでは紅茶を飲む習慣が広まって、中国からの茶の輸入が増え、また、産業革命の進展とともに、機械製の綿製品の市場としても、中国への関心が高まった。
- イギリスは、茶や陶磁器の輸入で生じた貿易赤字を埋め合わせる、インドで生産された麻薬のアヘンを密貿易によって中国に持ち込むようになる。
- その結果、逆に中国からアヘン代金として銀が海外に流出する事態となった。
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1842 |
- 1842 イギリスの近代的な軍事力の前に清軍はなすすべもなく敗北し、「南京条約」が結ばれた。
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1853 |
- 1853 プロテスタントのキリスト教布教に影響を受けた「洪秀全」は、上帝(エホバ)を信仰する新しい宗教を唱え、理想国家の建設を目指して蜂起し、清軍を撃退しながら「太平天国」を建国。
- 長江流域を占領し、南京を「天京」と改称して首都とした。
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1856 |
- 1856 イギリス、フランスは適当な口実によって、「アロー戦争(第2次アヘン戦争)」をしかける。
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1859 |
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1861 |
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- 1861 西太后、クーデターを起こし、「摂政」となる。
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1864 |
- 1864 湖南で「曽国藩」が独自の自衛軍「湘軍」をつくっていたが、その部下「李鴻省」は、故郷の安徽で編成した淮軍を率い、イギリス人ゴードンの指揮する外国人と中国人の混成部隊、常勝軍とともに江蘇と浙江を太平軍から奪い返し、この年、天京が陥落して、太平天国運動は敗北した。
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1866 |
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1871 |
- 1871 日本は「日清修好条規」により清と国交を結び、まもなく朝鮮に不平等条約を押しつけて開国させ、さらに琉球王国を廃止・併合して沖縄県とした。
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明治時代 |
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1875 |
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- 1875 光緒帝 即位 在位1875-1908
- わずか4歳で即位したが、実際の権力は「西太后」に握られた。
- 日本の明治維新にならい立憲君主制を実現させようとしたが、西太后らのクーデターで幽閉され、失意の内に病死した。
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1876 |
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1893 |
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1894 |
- 1894 朝鮮で新興宗教、東学を奉ずる農民たちが、日本や欧米の侵略に反発する反乱(甲午農民戦争)を起こすと、日清両国が朝鮮に軍隊を送り込み、「日清戦争」が始まった。
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1898 |
- 1898 「亡国の危機」の中で、政治制度の大幅な改革を行なって富国強兵を目指そうとする変法運動が起き、この年、「光緒帝」が康有為らを登用し、日本の明治維新をモデルとして急進的な改革をすすめようとした。
- しかし、保守派の官僚たちの反発を背景に、「西太后」は「戊戌の政変」と呼ばれるクーデターを強行して、光緒帝の政権を奪い、改革を3カ月で失敗させた。
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1900 |
- 1900 日清戦争後、特にドイツの強引な進出が目立った山東省では、民衆の排外感情が強くなって、伝統的な民間信仰に起源を有する「義和団」の勢力が拡大、キリスト教排斥と「扶清滅洋(清をたすけ西洋をほろぼす)」を唱えて蜂起し、この年北京に入って、列強の公使館が集まっていた区域を包囲した。
- 清朝は義和団を弾圧していたが、西太后は急速に成長した義和団の勢力に着目して列強に宣戦した。
- 列強8カ国は、連合軍を作って出兵し、激戦と末、北京を占領した。
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1903 |
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- 12月17日 1903 ライト兄弟 アメリカ・ノースカロライナ州キティホークで、史上初の動力飛行に成功
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1904 |
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1905 |
- 1905 次第に満州族の中国支配に反発する機運が高まり、「孫文」を中心にして、東京で「中国同盟会」という各地の革命結社の大同団結組織が作られた。
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1908 |
- 1908 義和団事件後、清朝は一転して有力な地方官僚を中心に、政治体制の改革に取り組み、「科挙」が廃止され、この年「憲法大綱」が発表されるなど、立憲帝政への移行が徐々に進んだ。
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- 1908 宣統帝(溥儀) 中国最後の皇帝 即位 在位1908-1912
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1911 |
- 1911 財政の補強策として外国から資金を借りるための担保に、民間鉄道の国有化をすすめようとしたが、これに反対して各地で激しい反対運動が起き、四川省では暴動となった。革命派の影響が強かった武昌駐屯の軍隊が蜂起して革命の火蓋を切ると、たちまち多くの省が清朝から独立を宣言した。
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- 12月 1911 革命派は、年末に帰国した「孫文」を「臨時大総統」に選んだ。
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1912 |
中華民国 →国共内戦中華人民共和国 |
- 1月 1912 南京で「中華民国」の成立を宣言した。これを辛亥革命という。
- 清は、軍事力をにぎる「袁世凱」に全権を与えて革命派に対抗させ、危機を切り抜けようとしたが、袁世凱は革命政府と結んで、「宣統帝(溥儀)」を退位させることを条件に、孫文から臨時大総統の地位を譲り受けた。
- こうして清朝は滅び、中国の王朝体制は終わりを告げた。
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大正時代 |
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1914 |
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1915 |
- 1915(大正4)年 日本の「大隈重信内閣」は、袁世凱政府に対して、「二十一カ条要求」をつきつけ、山東半島などでの権益の拡大を図った。
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1916 |
- 1916 袁世凱は革命派を弾圧して独裁体制の強化を図り、自ら即位して帝政復活を企てた。しかし内外の反対にあって挫折し、この年世を去った。
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1918 |
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1919 |
- 1919 「パリ講和会議」で「二十一カ条要求」の撤回を強く要求したが、会議はこれを却下。
- 北京大学の学生らは、5月4日、抗議運動を起こし、運動は日本製品の不買運動を展開するなど中国各地に拡大する。これを「五・四運動」という。
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1921 |
- 1921 「孫文」は「中国国民党」を組織し、この年、広州に「革命政府(広東政府)」をたてた。
- 「陳独秀」らは、ロシア革命の影響を受け、「コミンテルン」の指導のもとに「中国共産党」を結成した。
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1923 |
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1924 |
- 1924 「外モンゴル」では、中国からの独立をめざす運動がすすめられ、ロシア革命の影響を受けて人民革命政府がつくられ、ソ連の援助を受けて「モンゴル人民共和国」が成立した。
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- 1924 「孫文」もソ連との接触を深め、この年に国民党は共産党員の入党を認めて、「第1次国共合作」を成立させた。
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1925 |
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1926 |
- 1926 孫文の死後、「広東政府」は「国民政府」と改められ、その軍事権をにぎった「蒋介石」のもとで、北方の軍閥を倒して全国を再統一するための「北伐」がこの年開始された。
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昭和時代 |
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1927 |
- 4月 1927 勢力をのばした共産党に脅威を感じた「蒋介石」は、共産党への大弾圧(上海クーデター)を強行し、国共両党の合作は崩壊した。
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1928 |
- 1928 「北伐」は継続され、この年東北軍閥の首領「張作霖」を北京から追放した。
- 「張作霖」は奉天(現、瀋陽)への帰還中に日本軍に爆殺された。
- 張作霖の勢力を継承した息子の「張学良」が「蒋介石」を指示し、ここに中国はほぼ統一され、「蒋介石」は南京に国民政府をおいて主席になった。
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1931 |
- 1931 国共ん分裂後、共産党は農村に「ソビエト区」を設け、地主の土地を没収して貧農に分配する土地改革を実施して革命の拠点とし、この年、江西省の瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」(主席は毛沢東)がつくられた。
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- 1931 日本軍は、奉天郊外の柳条湖で自らがしかけた「南満州鉄道爆破事件」を張学良軍の仕業として東北全域を占領した。(「満州事変」)
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1932 |
- 1932 日本軍は「満州国」をたて、清朝最後の皇帝「溥儀」をむかえて皇帝としたが、日本の傀儡国家であった。
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1933 |
- 1933 「国際連盟」が「リットン調査団」の報告のもとに「満州国」の不承認を決議すると、日本は国際連盟から脱退した。
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1936 |
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1937 |
- 7月 1937 北京郊外で発生した蘆溝橋事件をきっかけに、宣戦布告のないまま日本軍は全面的な侵略戦争を開始し、「日中戦争」が始まる。
- そのため再び国共合作が成立する(第2次国共合作)。
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- 12月 1937 日本軍は首都南京を占領し、その際、捕虜や市民に対する大虐殺や暴行が行なわれ(南京大虐殺)、日本は国際的な非難をあびることになった。
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1939 |
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1941 |
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- 12月7日 1941 日本海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃を行なった。
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1945 |
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- 1945 8/6広島、9日長崎に原爆が投下される。
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1946 |
- 1946 戦争の間に共産党の支配する地域が拡大し、国共両党の対立は深まった。戦後まもなく「蒋介石」と「毛沢東」は重慶で話し合い、この年初めには政治協商会議が開かれたが、停戦の約束は守られず、再び内戦が始まった。
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1949 |
- 1949 共産党の人民解放軍は北から南へと圧倒的な勝利を得、この年初め、北京を占領した。
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- 10月1日 1949 毛沢東により「中華人民共和国」設立宣言/「蒋介石」の「国民政府」は台湾に移って、以後「大陸反攻」を唱え続けた。
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1950 |
- 2月 1950 「毛沢東」はソ連に赴き、「中ソ友好同盟相互援助条約」を結んだ。
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- 6月 1950 「朝鮮戦争」勃発。アメリカは台湾海峡に艦隊を派遣して蒋介石政権を西側の要員として確保。
- ソ連が欠席した国連決議に基づいてアメリカ軍を中心とする国連軍を朝鮮半島に上陸させる。
- 中国は東側の要員として人民義勇軍を派遣した。
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1951 |
- 9月 1951 アメリカは中国の封じ込めを図り、日本との「サンフランシスコ講和会議」でも、中国政府の参加要求を拒否した。
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1952 |
- 1952 日本は台湾の国民政府との間に「日華平和条約」を結び、日中戦争が集結したことにしたが、中華人民共和国はこれを認めず、1972年に「日中共同声明」が出されるまで、国交は回復されなかった。
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1953 |
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1954 |
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1956 |
- 1956 この年、ソ連で「フルシチョフ」による「スターリン」批判が行なわれ、その波紋が世界に広がる中で、中国でも「百花斉放・百家争鳴」と呼ばれる、共産党に対する批判的な言論が一時許された。
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1957 |
- 1957 共産党への批判が深化すると、毛沢東は一転して「右派」分子を摘発する厳しい政治運動を発動し、これによって多くの知識人や専門家が能力を発揮する場を失った。
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1958 |
- 1958 毛沢東は、農業の集団化を徹底してすすめるとともに、鉄鋼の増産を中心にした工業生産の飛躍的な発展によって、短期間に西側先進国の経済水準に追い付けると考えて、この年、農村での「人民公社」の建設と全国の「大躍進」政策の推進を唱えた。
- しかし「大躍進」は、現実には無用で粗悪な鉄を大量に残しただけに終わり、農村においても、「人民公社」の急進的な運営によって、全国の農業生産は破壊され、深刻な食料難が発生して多数の餓死者が出た。
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1960 |
- 1960年代前半 国家主席になった「劉少奇」や「ケ小平」らの手で、集団化の方向を緩和し、農村に自留地や自由市場を認めて、農民の生産意欲を引き出そうとする、いわゆる「調整」政策がすすめられ、経済も回復に向かった。
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1964 |
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1966 |
- 1966 毛沢東は、個人の収入増加など経済的刺激で事態を改善するのは資本主義の復活につながるとし、人民に革命思想を徹底させることで、まったく新しい理想的な社会が建設されると考え、「プロレタリア文化大革命」が発動された。
- 国家主席だった「劉少奇」をはじめ、あらゆる分野でおびただしい人々が「資本主義の道」を歩む「実権派」として糾弾され、激しい批判を受けて命を失った者も多かった。
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1967 |
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- 1967 EECからEC(ヨーロッパ共同体)になる
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1970 |
- 1970年代 文化大革命の混乱は人民解放軍の力によりある程度収拾された。
- 「周恩来」首相は「四つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術)を提唱し、文化大革命の時期に批判を受けた人々が徐々に職務に復帰する動きが見られ始めた。
- これに対して、毛沢東夫人の「江青」をはじめとする文革で台頭した勢力が鋭く対立した。
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1971 |
- 1971 国連総会で、台湾(中華民国)が排除されて中国の代表権が回復された。
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1972 |
- 1972 アメリカ大統領ニクソンが中国を訪れた。次いで、日本から田中首相、大平外務大臣が北京に出向き、「日中共同声明」により国交を回復。同時に、日本と台湾との国交は、「一つの中国」という原則のもとに、ただちに断絶された。
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1975 |
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1976 |
- 1月 1976 建国以来、毛沢東の一貫した協力者であり、文革期には穏健派の中心だった「周恩来」が死亡。
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- 4月5日 1976 周恩来の死を悼む人々が清明節に天安門広場に集まった。
- 政府はこれを反革命暴動として弾圧した(第1次天安門事件)。「ケ小平」は事件の黒幕として再び失脚した。
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- 9月 1976 死を目前にした「毛沢東」が「華国鋒」を後継に選び、死去。
- 「華国鋒」は「江青」ら文革派の主要メンバーを、反革命を企てる「四人組」として逮捕した。
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1977 |
- 1977 華国鋒政権は文化大革命の集結を宣言。「四つの現代化」をスローガンに、経済建設と生産力の発展を重視する路線へと転換した。
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1978 |
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- 1978 中国共産党は「改革と開放」の推進を党の基本路線とすることを決めた。
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1979 |
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- 1979 対ソ関係はきびしく、統一後のベトナムがソ連の支持のもとにカンボジアへの影響力を拡大すると、軍隊を派遣して「中越戦争」を起こした。
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1980 |
- 1980 「ケ小平」は、党や政府の最高ポストにはつかないまま、「華国鋒」にかわって政治の実権を握り、大胆な方向転換をすすめた。
- この年、孤立した「華国鋒」にかえて腹心の「趙紫陽」を首相のポストに据えた。
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- 12月 1980 元ビートルズのジョン・レノン、マーク・チャップマン(終身刑)に射殺される。
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1981 |
- 1981 「ケ小平」はもうひとりの腹心である「胡耀邦」を党の主席に就任させた。
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1982 |
- 1982 主席制度が廃止され、「胡耀邦」は党総書記に就任した。
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1985 |
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1986 |
- 1986 経済政策の面では積極的な開放政策がとられたが、政治の面では共産党の指導的地位という原則が堅持され、政治の民主化を求める運動はたびたび弾圧された。
- この年、民主化運動がもりあがると「胡耀邦」はその要求にある程度の理解を示した。
- しかし、共産党の権威に危機感をいだいた「ケ小平」は、まもなく「胡耀邦」を辞任させ、かわって「趙紫陽」を総書記とした。
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1989 |
- 1989 ソ連共産党書記長ゴルバチョフが民主化運動のさなかの北京を訪問して国交の正常化が実現した。
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平成 |
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- 4月 1989 「胡耀邦」の死をきっかけに再び民主化を求める学生や市民の運動が起き、北京の天安門広場から全国の各都市に波及する。
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- 6月4日 1989 政府は人民解放軍の武力をもちいて弾圧し(第2次天安門事件)、「趙紫陽」が失脚して「江沢民」が総書記となった。
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1991 |
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1993 |
- 1993 朝鮮戦争以来その存在を認めなかった大韓民国とも国交を開いた。
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- 11月1日 1993 EU European Union(ヨーロッパ連合)発足
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1995 |
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1996 |
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1997 |
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- 1月 1997 ロシア船籍のタンカー「ナホトカ」号が日本海で沈没。重油が流出する。
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- 7月1日 1997 香港がイギリスから返還される。
- 香港の民主制度は、「一国二制度」の原則のもとで返還後も維持されることになる。
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1998 |
- 1998 「李鵬」にかわって国務院総理(首相)となった「朱鎔基」が、経済政策を担当し、国有企業、金融制度、行政機構の三大改革を掲げた。
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- 6月 1998 「アメリカ大統領クリントン」が中国を訪問し、軍縮問題を中心とする「米中共同声明」が発表された。
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1999 |
- 4月 1999 「朱鎔基」首相がアメリカを訪問、中国のWTO(世界貿易機関)加盟問題などで共同声明を発表。
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- 5月 1999 NATO軍によるユーゴスラビア空爆に際して中国大使館が誤爆される事件が発生。北京のアメリカ大使館は中国国民の強い抗議を受けた。
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- 7月 1999 なかば宗教団体の気功集団「法輪功」が非合法とされた。
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- 9月 1999 クリントン大統領と江沢民国家主席の会談で、米中関係の修復がはかられた。
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- 12月 1999 マカオがポルトガルから返還される。
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2000 |
- 5月 2000 WTO加盟についてEUとの協議が合意に達し、またアメリカ下院で「対中最恵国待遇恒久化法案」が可決された。
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2001 |
- 7月 2001 ロシアを訪問した「江沢民」国家主席は「プーチン」大統領と会談。1980年に失効した「中ソ友好同盟相互援助条約」にかわる新たな「中ロ善隣友好協力条約」に両者が署名した。
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- 9月11日 2001 アメリカ同時多発テロ。
- 2機の旅客機がニューヨークの世界貿易センタービルに、1機がワシントンのアメリカ国防総省に突入、1機がペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に墜落。
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- 12月 2001 中国はWTOに加盟。これにより中国経済は世界の自由貿易体制と一体となった。
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2003 |
- 3月 2003 全国人民代表大会において、国家主席が「江沢民」から「胡錦濤」へ、首相が「朱鎔基」から「温家宝」へと、初めてスムーズにトップ交代が行なわれた。
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- 3月12日 2003 WHOが、広東や香港などで原因不明の肺炎(後にSARS)が集団発生と発表。
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- 3月15日 2003 WHOは緊急警報を発した。
- すでに2月段階で、広東省当局が発症を発表しており、北京でも感染者が出ていた。
- しかし、衛生省や北京市当局は事実を過少に発表、適切な初期対策が講じられなかった。
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- 4月20日 2003 胡錦濤と温家宝は合意の上、北京市長と衛生相を更迭、積極的な情報公開と感染者の隔離処置を実行した。
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- 6月 2003 フランスで開かれたエビアン・サミットに「胡錦濤」が招かれ、中国として初めてサミットに関わりを持つことになった。
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- 6月24日 2003 WHOによる渡航延期勧告の地域は広がったが、この日の北京への勧告解除、感染地域指定解除により、中国本土のSARS問題は収束した。
- この間、「胡錦濤」は精力的に医療機関や農村を視察、「温家宝」も法的な処置や痛手を被った産業への手当てなどを次々と実施、国内外の信頼を獲得していった。
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