中国
天安門事件 てんあんもんじけん
  • 1976(昭和51)年、及び1989(平成元)年、中国・北京の天安門広場で起きた民衆の抗議運動。
  • 第1次
    • 1976(昭和51)年4月5日に文化大革命に批判的な民衆が北京市当局と衝突した事件。
      • 1976年1月に死去した周恩来首相は、生前、権力を全面的に握ろうとしていた四人組など文革派にとって大きな障害となっていた。
      • 4月1日、周恩来の死は文革の混乱に苦しんだ人々の不安をかきたて、中国で故人をしのぶ清明節にあたるこの日、多くの民衆が、故周恩来首相の功績をたたえ、四人組を批判するプラカードを掲げて人民英雄記念碑までデモ行進をし、そこに花輪を供えた。
      • 5日、北京市当局側が花輪を撤去すると、民衆は抗議行動を起こし、広場周辺の建物などに放火し、死傷者の出る大騒動となる。
        • 当初、事件はケ小平ら資本主義を復活させようとする「走資派」の陰謀とされ、「反革命的事件」として処理された。
      • 9月、毛沢東が死亡して四人組が逮捕され、党の脱文革路線が打ち出されると、反対に「革命的行動」「四・五運動」として賞賛されるようになる。
  • 第2次
    • 1989(平成元)年6月4日に起きた民主化運動弾圧事件
      • 文化大革命が否定される中、華国鋒失脚をうけて党主席に就任した胡耀邦(党主席廃止にともない総書記)は思想解放を掲げたが、その急速な改革が保守派の反発をよび、1987(昭和62)年1月に失脚する。
      • 1989(平成元)年4月に胡耀邦は死去するが、同月、学生らがその追悼行事を天安門広場で行い、この集まりを非難する当局に対する抗議運動がひろがっていった。
      • 6月4日、天安門広場に集まっていた学生・市民を軍が戦車などを使い武力弾圧する事態となる。
        • 直接学生と対話を行った改革派指導者の趙紫陽らが失脚し、学生運動のリーダーの多くはアメリカなど国外へ脱出した。
2010.02.20

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