- 1898(明治31)年8〜1976(昭和51)年
- 在任1949(昭和24)年〜1976(昭和51)年
- 1917(大正6)年から2年近く日本に留学し、その間、河上肇の著作に触れてマルクス主義に傾倒していく。
- 1919(大正8)年、五・四運動がおこると帰国し、天津で学生運動を指導する。
- 1920(大正9)年、フランス、ドイツに留学、李立三らと知り合う。
- 1922(大正11)年、中国共産党に入党。
- 1924(大正13)年、帰国して孫文の国民革命に参加、第1次国共合作下で一時は黄埔(こうほ)軍官学校(校長、蒋介石)の政治部主任代理を務め、北伐に際しては上海の労働者蜂起を成功させる。
- 1927(昭和2)年、国共分裂後は、共産党中央委員として南昌蜂起、広東コミューンの指導者の一人となり、主として軍事面で重きをなす。
- 1931(昭和6)年、江西根拠地(ソビエト区)に入り、党中央軍事部長、第一方面軍政治委員に就任。
- 1934(昭和9)年、開始された紅軍の長征を指揮し、その途中開かれた遵義(じゅんぎ)会議では毛沢東の党指導権確立に尽くす。
- 1936(昭和11)年、西安事件が起きると、西安に赴いて、国民党の蒋介石、張学良と会談、第2次国共合作による抗日統一戦線結成のきっかけをつくる。
- 抗日戦争中は、国民政府の臨時首都重慶にあって、国共のパイプ役を務め、抗日戦争終了後は、アメリカの求めに応じ、国民政府との和平交渉に努める。
- その後、国共の内戦を経て、1949(昭和24)年、中華人民共和国が成立すると、国務院総理(58年まで外交部長兼務)に就任、外交に手腕を発揮する。
- 1954(昭和29)年、インドのネルー首相とともに平和五原則声明を発表。
- 1966(昭和41)年、文化大革命が始まり、多くの指導者が失脚するなか、最後まで政府内に残り、ついには脱文革を進める中心人物となり、「不倒翁」の異名をとる。
- 対外的にも活躍し、米中国交正常化と国連加盟(1971(昭和46))、日中国交正常化(1972(昭和47))を実現させる。
- 1976(昭和51)年、癌のため死去したが、彼の死を悼んだ民衆が引き起こした天安門事件(第1次)は、文革終焉の直接的きっかけをつくった。
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