中国
毛沢東 もうたくとう
  • 中国共産党の指導者。
  • 1893(明治26)〜1976(昭和51)(83歳)
  • 中華人民共和国の成立(1949年(昭和24))とともに政府主席に、1954(昭和29)〜1959年(昭和34)まで国家主席を務める。

■北京・天安門の肖像画

2010.02.08

My Dictionary

毛沢東の歴史
西暦 中国-年代 毛沢東 中国-出来事 日本-年代 世界-出来事
1893
  • 1893年(明治26) 湖南省の農村に生まれる。
明治
1894
  • 1894 朝鮮で新興宗教、東学を奉ずる農民たちが、日本や欧米の侵略に反発する反乱(甲午農民戦争)を起こすと、日清両国が朝鮮に軍隊を送り込み、「日清戦争」が始まった。
    • 戦争は日本の勝利に終わる。
1898
  • 1898 「亡国の危機」の中で、政治制度の大幅な改革を行なって富国強兵を目指そうとする変法運動が起き、この年、「光緒帝」が康有為らを登用し、日本の明治維新をモデルとして急進的な改革をすすめようとした。
    • しかし、保守派の官僚たちの反発を背景に、西太后は「戊戌の政変」と呼ばれるクーデターを強行して、光緒帝の政権を奪い、改革を3カ月で失敗させた。
1900
  • 1900 日清戦争後、特にドイツの強引な進出が目立った山東省では、民衆の排外感情が強くなって、伝統的な民間信仰に起源を有する「義和団」の勢力が拡大、キリスト教排斥と「扶清滅洋(清をたすけ西洋をほろぼす)」を唱えて蜂起し、この年北京に入って、列強の公使館が集まっていた区域を包囲した。
    • 清朝は義和団を弾圧していたが、西太后は急速に成長した義和団の勢力に着目して列強に宣戦した。
    • 列強8カ国は、連合軍を作って出兵し、激戦と末、北京を占領した。
1903
  • 12月17日 1903 ライト兄弟 アメリカ・ノースカロライナ州キティホークで、史上初の動力飛行に成功
1905
  • 1905 次第に満州族の中国支配に反発する機運が高まり、孫文を中心にして、東京で「中国同盟会」という各地の革命結社の大同団結組織が作られた。
1908
  • 1908 義和団事件後、清朝は一転して有力な地方官僚を中心に、政治体制の改革に取り組み、「科挙」が廃止され、この年「憲法大綱」が発表されるなど、立憲帝政への移行が徐々に進んだ。
1911
  • 1911 財政の補強策として外国から資金を借りるための担保に、民間鉄道の国有化をすすめようとしたが、これに反対して各地で激しい反対運動が起き、四川省では暴動となった。
    • 革命派の影響が強かった武昌駐屯の軍隊が蜂起して革命の火蓋を切ると、たちまち多くの省が清朝から独立を宣言した。
  • 12月 1911 革命派は、年末に帰国した孫文を「臨時大総統」に選んだ。
1912 中華民国 →国共内戦
  • 1月 1912 南京で「中華民国」の成立を宣言した。これを辛亥革命という。
    • 清は、軍事力をにぎる「袁世凱」に全権を与えて革命派に対抗させ、危機を切り抜けようとしたが、袁世凱は革命政府と結んで、「宣統帝(溥儀)」を退位させることを条件に、孫文から臨時大総統の地位を譲り受けた。こうして清朝は滅び、中国の王朝体制は終わりを告げた。
大正時代
1914
  • 1914 第1次世界大戦、勃発
1915
  • 1915 日本の「大隈重信内閣」は、袁世凱政府に対して、「二十一カ条要求」をつきつけ、山東半島などでの権益の拡大を図った。
1916
  • 1916 袁世凱は革命派を弾圧して独裁体制の強化を図り、自ら即位して帝政復活を企てた。
    • しかし内外の反対にあって挫折し、この年世を去った。
1918
  • 1918年(大正7) 長沙の師範学校で学び、在学中に新文化運動に接し、「新民学会」を組織し、この年卒業し、北京に出る。
    • そしてマルクス主義、無政府主義に触れる。
  • 11月 1918 第1次世界大戦、終結
1919
  • 1919年(大正8) この年の五・四運動の際に長沙で学生運動を指導しする。
    • その中で、マルクス主義に対する確信を深めていった。
  • 1919 「パリ講和会議」で「二十一カ条要求」の撤回を強く要求したが、会議はこれを却下。
    • 北京大学の学生らは、5月4日、抗議運動を起こし、運動は日本製品の不買運動を展開するなど中国各地に拡大する。これを「五・四運動」という。
1920
  • 1920年(大正9) 師範学校付属小学校の主事(校長)になり、校内に共産主義グループを組織する。
1921
  • 1921年(大正10) 共産党創立大会に出席する。
  • 1921 孫文は「中国国民党」を組織し、この年、広州に「革命政府(広東政府)」をたてた。
    • 「陳独秀」らは、ロシア革命の影響を受け、「コミンテルン」の指導のもとに「中国共産党」を結成した。
1922
  • 1922年(大正11) 党務に専念するために学校を辞職する。
1924
  • 1924 「外モンゴル」では、中国からの独立をめざす運動がすすめられ、ロシア革命の影響を受けて人民革命政府がつくられ、ソ連の援助を受けて「モンゴル人民共和国」が成立した。
  • 1924 「孫文」もソ連との接触を深め、この年に国民党は共産党員の入党を認めて、「第1次国共合作」を成立させた。
1926
  • 1926 孫文の死後、「広東政府」は「国民政府」と改められ、その軍事権をにぎった「蒋介石」のもとで、北方の軍閥を倒して全国を再統一するための「北伐」がこの年開始された。
昭和時代
1927
  • 1927年(昭和2) 第1次国共合作が分裂した後、この年、湖南省の反国民党武装蜂起を指導したが失敗し、湖南・広西省境の山に撤退する。
  • 4月 1927 勢力をのばした共産党に脅威を感じた「蒋介石」は、共産党への大弾圧(上海クーデター)を強行し、国共両党の合作は崩壊した。
1928
  • 1928年(昭和3) 朱徳の軍と合流し、最初の紅軍、工農紅軍第4軍を組織する。
  • 1928 「北伐」は継続され、この年東北軍閥の首領「張作霖」を北京から追放した。
    • 「張作霖」は奉天(現、瀋陽)への帰還中に日本軍に爆殺された。
    • 張作霖の勢力を継承した息子の「張学良」が「蒋介石」を指示し、ここに中国はほぼ統一され、「蒋介石」は南京に国民政府をおいて主席になった。
1931
  • 1931年(昭和6) 広西省で中華ソビエト共和国臨時政府が樹立されると、主席に就任する。
  • 1931 国共ん分裂後、共産党は農村に「ソビエト区」を設け、地主の土地を没収して貧農に分配する土地改革を実施して革命の拠点とし、この年、江西省の瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」(主席は「毛沢東」)がつくられた。
  • 1931 日本軍は、奉天郊外の柳条湖で自らがしかけた「南満州鉄道爆破事件」を張学良軍の仕業として東北全域を占領した。(「満州事変」)
1932
  • 1932 日本軍は「満州国」をたて、清朝最後の皇帝「溥儀」をむかえて皇帝としたが、日本の傀儡国家であった。
1933
  • 1933 「国際連盟」が「リットン調査団」の報告のもとに「満州国」の不承認を決議すると、日本は国際連盟から脱退した。
1935
  • 1935年(昭和10) 長征途上の貴州省で開かれた会議で共産党の指導権を握り、同年、抗日統一戦線の結成を訴えた。
1937
  • 1937年(昭和12) 国民党の「蒋介石」との間で第2次国共合作が成立すると、長征完了後の革命根拠地である陝西省延安にて抗日戦を指揮するとともに、農民を主体とした革命論である「実践論」「矛盾論」などを執筆し、毛沢東思想の基礎を作った。
  • 7月 1937 北京郊外で発生した蘆溝橋事件をきっかけに、宣戦布告のないまま日本軍は全面的な侵略戦争を開始し、「日中戦争」が始まる。そのため再び国共合作が成立する(第2次国共合作)。
  • 12月 1937 日本軍は首都南京を占領し、その際、捕虜や市民に対する大虐殺や暴行が行なわれ(南京大虐殺)、日本は国際的な非難をあびることになった。
1939
  • 9月1日 1939 第2次世界大戦、勃発
1945
  • 1945年(昭和20) この年、日本の降伏によって第2次世界大戦は終わるが、中国では再び共産党と国民党が内戦(国共内戦)に突入する。
    • 共産党はこれに勝利する。
  • 1945 第2次世界大戦、終結
1946
  • 1946 戦争の間に共産党の支配する地域が拡大し、国共両党の対立は深まった。
    • 戦後まもなく「蒋介石」と「毛沢東」は重慶で話し合い、この年初めには政治協商会議が開かれたが、停戦の約束は守られず、再び内戦が始まった。
1949 中華人民共和国
  • 1949年(昭和24) 毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言して政府主席(1954年(昭和29)から国家主席)に就任し、中国の社会主義的改革を指導することになる。
  • 1949 共産党の人民解放軍は北から南へと圧倒的な勝利を得、この年初め、北京を占領した。
  • 10月1日 1949 「毛沢東」により「中華人民共和国」設立宣言
    • 「蒋介石」の「国民政府」は台湾に移って、以後「大陸反攻」を唱え続けた。
1950
  • 1950年(昭和25) ソ連を重視し、「スターリン」との間で中ソ友好同盟相互援助条約に調印したが、次第にソ連の社会主義建設に批判を強めていく。
  • 2月 1950 「毛沢東」はソ連に赴き、「中ソ友好同盟相互援助条約」を結んだ。
  • 6月 1950(昭和25) 朝鮮戦争、勃発
  • 6月 1950 「朝鮮戦争」勃発。アメリカは台湾海峡に艦隊を派遣して蒋介石政権を西側の要員として確保。
    • ソ連が欠席した国連決議に基づいてアメリカ軍を中心とする国連軍を朝鮮半島に上陸させる。中国は東側の要員として人民義勇軍を派遣した。
1951
  • 9月 1951 アメリカは中国の封じ込めを図り、日本との「サンフランシスコ講和会議」でも、中国政府の参加要求を拒否した。
1952
  • 1952 日本は台湾の国民政府との間に「日華平和条約」を結び、日中戦争が集結したことにしたが、中華人民共和国はこれを認めず、1972年に「日中共同声明」が出されるまで、国交は回復されなかった。
1953
  • 7月 朝鮮戦争休戦
  • 7月 1953(昭和28) 朝鮮戦争、終結
1954
  • 1954(昭和29) ベトナム戦争始まる。
1956
  • 1956年(昭和31) 中国独自の社会主義の建設を唱えるようになる。
  • 1956 この年、ソ連で「フルシチョフ」による「スターリン」批判が行なわれ、その波紋が世界に広がる中で、中国でも「百花斉放・百家争鳴」と呼ばれる、共産党に対する批判的な言論が一時許された。
1957
  • 1957 共産党への批判が深化すると、毛沢東は一転して「右派」分子を摘発する厳しい政治運動を発動し、これによって多くの知識人や専門家が能力を発揮する場を失った。
  • 1957 EEC(ヨーロッパ経済共同体)結成
1958
  • 1958年(昭和33) 全中国農民の人民公社化と大躍進運動を開始するが失敗に終わる。
  • 1958 毛沢東は、農業の集団化を徹底してすすめるとともに、鉄鋼の増産を中心にした工業生産の飛躍的な発展によって、短期間に西側先進国の経済水準に追い付けると考えて、この年、農村での「人民公社」の建設と全国の「大躍進」政策の推進を唱えた。
    • しかし「大躍進」は、現実には無用で粗悪な鉄を大量に残しただけに終わり、農村においても、「人民公社」の急進的な運営によって、全国の農業生産は破壊され、深刻な食料難が発生して多数の餓死者が出た。
1959
  • 1959年(昭和34) 国家主席を「劉少奇」に譲り、以後、党務に専念する。
1960
  • 1960年代前半 国家主席になった「劉少奇」や「ケ小平」らの手で、集団化の方向を緩和し、農村に自留地や自由市場を認めて、農民の生産意欲を引き出そうとする、いわゆる「調整」政策がすすめられ、経済も回復に向かった。
1964
  • 1964 最初の原爆実験に成功。
1966
  • 1966年(昭和41) 文化大革命を発動し、紅衛兵らを動員。
    • 劉少奇らの反対派の追い落としに成功する。
  • 1966 毛沢東は、個人の収入増加など経済的刺激で事態を改善するのは資本主義の復活につながるとし、人民に革命思想を徹底させることで、まったく新しい理想的な社会が建設されると考え、「プロレタリア文化大革命」が発動された。
    • 国家主席だった「劉少奇」をはじめ、あらゆる分野でおびただしい人々が「資本主義の道」を歩む「実権派」として糾弾され、激しい批判を受けて命を失った者も多かった。
1967
  • 1967 EECからEC(ヨーロッパ共同体)になる
1970
  • 1970年代 文化大革命の混乱は人民解放軍の力によりある程度収拾された。
    • 「周恩来」首相は「四つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術)を提唱し、文化大革命の時期に批判を受けた人々が徐々に職務に復帰する動きが見られ始めた。これに対して、毛沢東夫人の「江青」をはじめとする文革で台頭した勢力が鋭く対立した。
1971
  • 1971年(昭和46) この年の林彪事件後、文化大革命は終息に向かい、毛沢東の指導力も低下する。
  • 1971 国連総会で、台湾(中華民国)が排除されて中国の代表権が回復された。
1972
  • 1972 アメリカ大統領ニクソンが中国を訪れた。
    • 次いで、日本から田中首相、大平外務大臣が北京に出向き、「日中共同声明」により国交を回復。
    • 同時に、日本と台湾との国交は、「一つの中国」という原則のもとに、ただちに断絶された。
1975
  • 1975(昭和50) ベトナム戦争、終結
1976
  • 1976年(昭和51) 没。
  • 1月 1976 建国以来、毛沢東の一貫した協力者であり、文革期には穏健派の中心だった「周恩来」が死亡。
  • 4月5日 1976 周恩来の死を悼む人々が清明節に天安門広場に集まった。
    • 政府はこれを反革命暴動として弾圧した(第1次天安門事件)。「ケ小平」は事件の黒幕として再び失脚した。
  • 9月 1976 死を目前にした「毛沢東」が「華国鋒」を後継に選び、死去。
    • 「華国鋒」は「江青」ら文革派の主要メンバーを、反革命を企てる「四人組」として逮捕した。