西太后の歴史 |
西暦 |
中国の年代 |
西太后 |
中国-出来事 |
日本の年代 |
1835 |
清 |
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江戸時代 |
1840 |
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- 1840 イギリスは艦隊を派遣して「アヘン戦争」をしかけた。
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1842 |
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- 1842 イギリスの近代的な軍事力の前に清軍はなすすべもなく敗北し、「南京条約」が結ばれた。
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1852 |
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1853 |
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- 1853 プロテスタントのキリスト教布教に影響を受けた「洪秀全」は、上帝(エホバ)を信仰する新しい宗教を唱え、理想国家の建設を目指して蜂起し、清軍を撃退しながら「太平天国」を建国。
- 長江流域を占領し、南京を「天京」と改称して首都とした。
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1856 |
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- 1856 イギリス、フランスは適当な口実によって、「アロー戦争(第2次アヘン戦争)」をしかける。
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1861 |
- 1861年 咸豊帝が死んで載淳が同治帝となって即位すると、慈禧皇太后となる。
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- 11月 1861年11月 恭親王奕きん(えききん)と謀ってクーデターを起こして反対派を一掃し、同じく咸豊帝の皇后だった慈安皇太后とともに摂政となる。
- この後、慈安皇太后が東太后と呼ばれたのに対し、西太后と呼ばれるようになり、垂簾政治を行なうようになる。
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1864 |
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- 1864 湖南で「曽国藩」が独自の自衛軍「湘軍」をつくっていたが、その部下「李鴻省」は、故郷の安徽で編成した淮軍を率い、イギリス人ゴードンの指揮する外国人と中国人の混成部隊、常勝軍とともに江蘇と浙江を太平軍から奪い返し、この年、天京が陥落して、太平天国運動は敗北した。
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1871 |
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- 1871 日本は「日清修好条規」により清と国交を結び、まもなく朝鮮に不平等条約を押しつけて開国させ、さらに琉球王国を廃止・併合して沖縄県とした。
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明治時代 |
1875 |
- 1875年(明治8) 同治帝が病死すると、妹の息子の載'シ恬'(さいてん)を即位させて「光緒帝」とし、再び東太后とともに垂簾政治を行なう。
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1884 |
- 1884年(明治17) 東太后が没し、この年、恭親王が失脚すると、権力は西太后に集中する。
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1889 |
- 1889年(明治22) この年から光緒帝に親政を許したものの、国政の実権は握り続けた。
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1894 |
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- 1894 朝鮮で新興宗教、東学を奉ずる農民たちが、日本や欧米の侵略に反発する反乱(甲午農民戦争)を起こすと、日清両国が朝鮮に軍隊を送り込み、日清戦争が始まった。戦争は日本の勝利に終わる。
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1898 |
- 1898年(明治31) 日清戦争に敗北すると、光緒帝の下で立憲君主制を実施し、政治改革を進めようとする官僚の一派(変法派・維新派)の発言力が増し、この年に最高潮に達する。
- この流れに対し、西太后は袁世凱を味方につけてクーデターを起こし(戊戌の政変)、変法派を処刑、追放して光緒帝を幽閉した。
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- 1898 「亡国の危機」の中で、政治制度の大幅な改革を行なって富国強兵を目指そうとする変法運動が起き、この年、「光緒帝」が康有為らを登用し、日本の明治維新をモデルとして急進的な改革をすすめようとした。
- しかし、保守派の官僚たちの反発を背景に、「西太后」は「戊戌の政変」と呼ばれるクーデターを強行して、光緒帝の政権を奪い、改革を3カ月で失敗させた。
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1900 |
- 1900年(明治33) この年、外国人の排斥を掲げた「義和団の乱」が起きると、これを利用して列強に宣戦する(北清事変)。
- しかし、8カ国連合軍に北京を占領されたため、いったん西安に逃れる。
- この結果、不平等条約を結ばされ、中国の半植民地化は決定的なものとなり、これ以後、清朝は滅亡の道を走ることになる。
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- 1900 日清戦争後、特にドイツの強引な進出が目立った山東省では、民衆の排外感情が強くなって、伝統的な民間信仰に起源を有する「義和団」の勢力が拡大、キリスト教排斥と「扶清滅洋(清をたすけ西洋をほろぼす)」を唱えて蜂起し、この年北京に入って、列強の公使館が集まっていた区域を包囲した。
- 清朝は義和団を弾圧していたが、西太后は急速に成長した義和団の勢力に着目して列強に宣戦した。
- 列強8カ国は、連合軍を作って出兵し、激戦と末、北京を占領した。
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1905 |
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- 1905 次第に満州族の中国支配に反発する機運が高まり、孫文を中心にして、東京で「中国同盟会」という各地の革命結社の大同団結組織が作られた。
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1908 |
- 1908年(明治41) 西太后、没する。
- 死の直前、清朝最後の皇帝となる溥儀(宣統帝)を指名する。
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- 1908 義和団事件後、清朝は一転して有力な地方官僚を中心に、政治体制の改革に取り組み、「科挙」が廃止され、この年「憲法大綱」が発表されるなど、立憲帝政への移行が徐々に進んだ。
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