| その他のスポット |
| 諧趣園 |
かいしゅえん |
シエチュィユェン |
- 「園中の園」として知られる。
- 1751年(乾隆16)、乾隆帝は初めて江南に下り、無錫まで遊覧した。
- その時の風景を「恵山園」として再現させた。
- 1811年(嘉慶16)、恵山園は第1回目の改修が行なわれ、「諧趣園」と改名された。
- 1860年、英仏連合軍の焼き討ちに遭う。
- 現在の諧趣園は、光緒帝時代、1892年に再建されたもの。
|
| 衆香界牌坊・智慧海無梁殿 |
しゅうこうかいひぼう・ちそうかいむりょうでん |
ヂョンシアンジエパイファン・ヂーホィハイウーリャンディエン |
- 衆香界牌坊とその背後の智慧海無梁殿が一体となった仏教施設。
- 智慧海の内部は梁を一切使わない構造。
|
| 宜芸館 |
せんげいかん |
イーイーグァン |
- 光緒帝の皇后・隆裕が住んだ所。
- 隆裕は西太后の姪。
- 西太后が光緒帝を政治的に支配するために隆裕を妃に選んだ。
|
| 西堤 |
せいてい |
シーティー |
- 杭州西湖の蘇堤を真似て造られた。
- 堤の上には6つの橋がある。
- 「玉帯橋」は、遠くから見ると、木々の緑の中に隠れた玉帯のように見える。
|
| 蘇州街 |
|
スーヂョウジエ |
- 蘇州の商店街を真似た街。
- 宮廷に古くからあった庶民の街(官市)を再現した買い物ごっこの街(売買街)。
- 乾隆帝はこの街で買い物ごっこを楽しんでいた。
- 1860年の英仏連合軍の焼き討ちで廃墟となっていたが、近年復元された。
- この中では清代の通貨に似せた銭が売られ、この銭によって買い物をする。
|
| 東堤 |
とうてい |
ドンディー |
- 石造りの長い堤。
- 中間に虹をかたどった17の穴のある「十七孔橋」がある。
- 中央の穴から数えると両側ともに9個の穴があるが、9という数は古代において「陽数」と考えられ、皇帝のみが使用できた。
- 橋の長さは150mで西の端←は南湖島とつながっている。
- 東の端→には八角形の「廓如亭」は現存する亭建築の中で最大のもの。
|
| 銅牛 |
|
トンニャオ |
- 十七孔橋の袂にある牛の銅像。
- 1755年鋳造。
- 禹が治水を行なった際、鉄牛が水害を鎮めるということで、鉄牛を鋳造して水底に沈め、治水を成功させたという故事にならったもの。
|
| 東宮門 |
|
ドンゴンメン |
|
| 徳和園(有料) |
|
ダーハーユェン |
- 乾隆帝が詩文酒会を開いた怡春堂の跡地に光緒帝時代に建てられた。
- □大戯楼
- 3階建ての舞台。
- 1894年完成、仏香閣に次、費用がかかっている。(銀71万両以上
- 承徳避暑山荘の清音閣、紫禁城の暢音閣と並んで清代三大戯台と呼ばれる。
- 徳和園の大戯楼は最後の建造で、最大の規模である。
- 徳和園の大戯楼、頤和園内の仏香閣、故宮の大和門、天壇の祈年殿を光緒四大建築と呼ぶ。
- 徳和園大戯楼のみ新築で、他は再建。
- □頤楽殿
- 大戯楼の正面。
- 西太后が観劇した場所。
- 頤楽殿の中は、西太后と光緒帝の妃、宮中女官だけが入ることを許され、光緒帝でさえ、廊下の外の臨時の席で京劇を観た。
|
| 排雲殿 |
|
パイユィンディエン |
- 乾隆帝が母の還暦を祝って建てた「大報恩延寿寺」を西太后が再建したもの。
- 西太后の誕生日に殿内で王公大臣達による祝賀が行なわれた。
- 排雲殿の名称は「神仙排雲、但見金銀台」から引用された。
- 殿内東側→には、1905年に米国人画家の描いた西太后の肖像画がかけられている。
- 殿内に並べられている工芸品は、すべて西太后の70歳の誕生日の大臣達からの贈り物である。
|
| 排雲門 |
|
パイユィンメン |
- 門内から山上に向かうと、瑠璃瓦の建築が望める。
- 頤和園の中心的建築群で、手前が仏香閣、その後ろに2階建ての衆香界と智慧海がある。
|
| 宝雲閣 |
|
バオユィングー |
- 「銅亭」と呼ばれている。
- 木造建築を模して造られた銅製の寺。
- 1755年に建立されたときは41万4000斤(207t)の銅を使用し、建造後に表面を磨いた時に落ちた銅の屑は5000斤(2.5t)あったという。
- 1860年の英仏連合軍による焼き討ちの際に略奪され、内部の仏像はもちろん窓枠まで持ち去られたという。
- わずかに銅製の机が1つだけ残されたが、それも日中戦争の際に日本軍に一時持ち去られていたという。
-
|
| Top|世界|省・自治区・特別市/中国|北京|市街地 |