- 1891(明治24)年〜1945(昭和20)年(54歳)
- 1933(昭和8)年、貴族院議長に就任。
- 1937年(昭和12年)6月、軍部と政党の対立解消を期待されて、大臣経験がないまま首相となり、挙国一致内閣を組織した。
- 翌月に盧溝橋事件が起きると、すぐに派兵を決定して事態を悪化させ、日中戦争に突入、政権内部の混乱をますます大きくした。
- 翌、1938(昭和13)年には和平交渉を打ち切り、後の大東亜共栄圏構想の母体となった「東亜新秩序建設」を声明して戦争を泥沼化させていった。
- その間に軍部は南京などを武力占領し、中国に甚大な被害をあたえた。
- 国内では国家総動員法を公布し、国民精神総動員運動や経済統制を進めた。
- 1939(昭和14)年、陸軍との対立で総辞職し、枢密院議長に就任。
- しかしヒトラーのヨーロッパでの電撃戦成功に刺激されて翌年議長をやめ、ナチスを手本とした国民組織づくりをめざして新体制運動を始めた。
- 1940(昭和15)年、再び首相になると大政翼賛会を結成し、これを頂点に、労働者の統制を目的とした大日本産業報国会や隣組などを整備して、ファシズム下の国民統制組織をつくりあげた。
- 一方、武力による南進政策をとってベトナムに進駐を強行したことから、アメリカなどとの対立が決定的となる。
- 1941(昭和16)年、日米外交交渉を開始した。
- これに反対する松岡洋右外相を更迭して総辞職したあと、引き続き第3次内閣で交渉を継続したが東条英機陸相の反対にあって日米交渉は行き詰まり、総辞職した。
- 戦後、東京裁判でA級戦犯容疑者に指名され、出頭当日の朝に自殺した。
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