- 1889(明治22)年-1945(昭和20)年
- 在任1934(昭和9)年-1945(昭和20)年
- ドイツを徹底した軍国主義社会に改造し、1939(昭和14)年、第2次世界大戦を始めた。
- 反ユダヤ主義を政策宣伝の中核において、ナチ党を大衆運動に発展させ、ユダヤ人その他の人々を対象に、数百万人にのぼる大量殺人を引き起した。
- 1889(明治22)年、オーストリアで生まれ、父は税関の中級官吏、母は農民出身だった。
- ウィーンの美術学校を2度受験したが、2度とも不合格となった。
- 1913(大正2)年までウィーンに滞在し、独身者合宿所に住みながら亡くなった両親の遺産と孤児恩給に頼る生活を続け、絵を描いて収入を得た。
- その間熱心に読書を続け、反ユダヤ主義と反民主主義の確信を深め、英雄崇拝と大衆蔑視の思想を培った。
- 第1次世界大戦が始まると、ミュンヘンに移住していたヒトラーは、ドイツ帝国陸軍に志願し、バイエルン歩兵連隊に所属した。
- きわめて勇敢で鉄十字勲章を受けたが、上官たちからは指導者としての資質に欠けると思われ、上等兵より上には昇進できなかった。
- 戦後はミュンヘンに戻り、1920(大正9)年まで義勇軍として軍隊生活を続けた。
- 1919(大正8)年9月に、民族主義者からなるドイツ労働者党に加わる。
- 1920(大正9)年には軍を退いて党活動に専念するようになる。
- 党はその少し前に国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改名していたが、ヒトラーは1921(大正10)年に同党第1議長に選ばれ、党内での独裁権を確立した。
- ヒトラーは、人種憎悪と民主主義蔑視の信条をひろめた。
- 党の集会を組織し、ボディガードでもあった突撃隊(SA)を使って、政治上の反対者たちを脅した。
- まもなくバイエルン州の政治的第一人者となり、高級官僚や経営者層から資金援助を受けるようになった。
- そして、政治的・経済的混乱状態のさなかの1923(大正12)年11月、ワイマール体制に反対してミュンヘン一揆を起こし、自ら新ドイツ政府の首班を宣したが、軍部の支持を得られず、一揆は鎮圧された。
- 一揆の首謀者として5年の禁固刑を宣告され、9カ月の獄中生活を送ったが、獄中でそれまでの半生を自伝的に記した「わが闘争」を口述した。一揆の失敗からヒトラーが学んだのは、権力の座につくには合法的手段を用いなければならないということだった。
- 1924(大正13)年12月、恩赦によって釈放されると、党の再建に取りかかった。
- 1929(昭和4)年に世界恐慌がドイツに波及すると、ヒトラーは、それをユダヤ・共産主義の陰謀であると宣伝したが、これは多くのドイツ人に受け入れられた。
- 強いドイツと仕事の確保、そして民族の栄光、これらを約束するヒトラーは、何百万人もの選挙人をひきつけた。
- 国会でのナチ党議席は、1928(昭和3)年の12議席から1930(昭和5)年の107議席へと大幅に増加した。
- 続く2年間、党は躍進を続け、増大する失業、共産主義の脅威、ヒトラーの自信に満ちた態度と政敵たちの自信のなさが、それに拍車をかけた。
- それでも人々は、1933(昭和8)年1月にヒトラーが大統領ヒンデンブルクにより首相に任命されたとき、彼は大企業のいいなりになるだろうと考えていた。
- 権力の座につくと、ヒトラーは、すぐさま独裁者としての地位を固めた。
- 1933(昭和8)年の国会選挙でナチス党は647議席中288議席を占めた。
- その後の国会が全権委任法を通過させたため、ヒトラー政府は国会の決議なくして法律を制定する権限を得た。
- 全権委任法は、事実上国会を無力化し、ヒトラーはこの法律を利用して、官僚制度と司法制度をナチ化し、すべての労働組合をナチ党に管理された一つのドイツ労働戦線にくみかえ、ナチ党以外の政党を禁止した。
- 1934(昭和9)年、ヒンデンブルクが死ぬとヒトラーは総統に就任、経済、メディア、あらゆる文化活動がナチ党の管理下におかれ、人々の生活は、ナチ党に対する政治的忠誠心に応じて許され、あるいは破壊された。
- 何千人にも及ぶ反対者が強制収容所にひきたてられ、異議をとなえる言動は、ささいなことでも弾圧された。
- ヒトラーが反対者を威嚇する道具として信頼したのは、国家秘密警察ゲシュタポと監獄と収容所であったが、多くのドイツ人は彼を熱狂的に支持した。
- 軍備拡張政策は失業を一掃し、自家用車やレクリエーションの機会を与える政策は、労働者・従業員の心を捉えた。
- さらに外交上の成功は、国民に強烈な印象をあたえた。
- こうしてヒトラーは、ヨーロッパ全土にドイツの支配をうちたてるために必要な、国民の圧倒的支持を得ることに成功した。
- ヒトラーは腐敗と不道徳の非難を浴びせて教会の権威を失墜させるかたわら、冷血な道徳規律をおしたてた。
- 人間の平等という観念をあざけり、アーリヤ人の人種的優越性を宣伝し、その中でもドイツ人が最高であると主張した。
- 支配人種たるドイツ人は、征服地の全民族を支配する権利を持っているというのである。
- ますます残酷の度を強めていくユダヤ人への迫害は、アーリヤ人種による征服という事業に向けて、ドイツ人を鍛えるためのものだった。
- ヒトラーは、第1次世界大戦の敗北と1919(大正8)年のベルサイユ条約によって、屈辱の思いにかられていたドイツ人の心をとらえることに成功した。
- 多くのドイツ人が、そして他のヨーロッパの人々でさえもが、ベルサイユ条約がドイツに課した条件は厳しすぎると考えていたので、ヒトラーは条約中のいくつかの条項を無視することに成功した。
- 1935(昭和10)年の大々的なドイツ再軍備の取り組みは、他のヨーロッパ諸国からほとんど抵抗を受けず、1936(昭和11)年の非武装地帯ラインラントへの進駐の時も、フランスは反応を示さなかった。
- 1936(昭和11)年7月にスペイン内戦が始まると、ヒトラーは民族主義者のフランコ将軍を支持し、飛行機と武器を提供した。
- フランコ派への援助は、ヒトラーの戦略と兵器の技術水準を試す好機でもあった。
- ついで同年10月に、イタリア・ファシストの指導者ムッソリーニとの間で、後にベルリン・ローマ枢軸と呼ばれることになる協定を締結し、11月には日本との間で日独防共協定を締結した。
- 翌1937(昭和12)年11月、イタリアがこの防共協定に加わり、ここに日独伊三国防共協定が成立した。
- さらに1940(昭和15)年9月には、防共協定をいっそう強化し相互援助を取り決めた日独伊三国同盟が締結された。
- ヒトラーは、ドイツ民族は東方へ領土を拡大して、生活空間を見いだす必要があると信じていた。
- 「生存圏」と名づけられたこの空間は、農業のためにも工業のためにも利用されるはずであった。
- 1938(昭和13)年、ヒトラーは、ドイツ民族が迫害されているという口実のもとにオーストリアを占領したが、なんの抵抗にもあわなかった。
- 1938(昭和13)年9月には、チェコスロバキアのズデーテン地方に住むドイツ民族が抑圧を受けていると声明し、ズデーテン・ドイツ人たちを促して、チェコ政府に対して実現しえない要求を提出させた。
- こうしてドイツはチェコ進軍の口実をえた。
- イギリスとフランスは、戦争勃発をおそれるあまり、その他のチェコ領土を侵略しないというドイツとの約束と引き換えに、ズデーテン地方をドイツに割譲することを内容とするミュンヘン協定に同意した。
- 協定が締結されたにもかかわらず、1939(昭和14)年3月にヒトラーは、残りのチェコ領をドイツの支配下においた。
- 1939(昭和14)年8月、ドイツとソ連の間で、独ソ不可侵条約が結ばれた。
- 世界を驚かせたこの条約は、ポーランドを独ソ両国で分割するという秘密議定書を含んでいた。
- ソ連を中立化させたヒトラーは、同年9月、ポーランドに進軍した。
- ポーランド軍は短期間のうちに敗退し、ポーランドを同盟国とするイギリス、フランスはドイツに宣戦を布告したが、ポーランドを救うための効果的な行動はとらなかった。
- 1940(昭和15)年春、ヒトラーの軍は、デンマークとノルウェー領内に侵入、数週間後にはオランダ、ベルギー、フランスへと進撃した。
- イギリスは空軍がドイツ空軍の攻撃をしのぐことができたので、敗北をまぬがれた。
- 土地への渇望と共産主義への憎悪にかられて、ヒトラーは、1941(昭和16)年6月、ソ連に侵入した。
- ソ連との戦争は短期間に終了すると信じていたヒトラーは、軍が冬に向けた装備をすることを許可しなかった。
- はじめドイツ軍は多大の戦果をおさめ、モスクワとレニングラード(現、サンクトペテルブルク)に達せんばかりだったが、その勢いは1941(昭和16)12月にソ連軍が反撃を開始するまでのことだった。
- ヒトラーは、ソ連軍の規模と持久力を過小に評価していた。
- さらに、アメリカ参戦が戦局におよぼす影響についても判断を誤った。
- どうあってもソ連を叩き潰すという観念にとりつかれていたために、西部戦線を軽視してしまった。
- 戦時期を通じてヒトラーは、世界中のユダヤ人を絶滅するという宣伝を続けた。
- 1942(昭和17)年には、親衛隊と政府要人の会議を招集し、ユダヤ人問題の最終的解決策を協議した。
- そして、強制収容所に加えて、大規模な絶滅収容所の建設をはじめた。
- この絶滅収容所では、600万人のユダヤ人が殺害された。
- 時を経るにつれ敗戦は必至の状態となったが、ヒトラーは、降伏を拒絶した。
- 1944(昭和19)年7月20日のドイツ軍将校グループによるヒトラー暗殺は失敗したが、翌年4月30日、ヒトラーは、連合軍がドイツになだれこむ中、ベルリンの総統官邸の地下壕で自殺をとげた。
- 長いあいだ伴侶となり、前日ヒトラーとの結婚式をあげたエバ・ブラウンが、死をともにした。
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