- 1892(明治25)年-1975(昭和50)年(82歳没)
- 1936(昭和11)年〜1975(昭和50)年に国家首長として独裁を行う。
- 1892(明治25)年、スペインのガリシア地方に生まれる。
- 1910(明治43)年、トレドの陸軍歩兵学校を卒業、スペイン領モロッコで現地民による軍の編成にあたる。
- 1925(大正14)年、リーフ族の反乱を鎮圧。
- 1933(昭和8)年、准将に昇進すると、翌年アストゥリアスの鉱山労働者蜂起を鎮圧。
- 1935(昭和10)年、スペイン軍で最強とされるモロッコ方面軍司令官となる。
- 1936(昭和11)年、人民戦線政府が成立すると、王党派だったフランコは閑職のカナリア諸島方面軍司令官に左遷されたが、軍部の反共和制反乱に加わり、反乱軍の主力となったモロッコ軍の指揮をとる。(スペイン内乱の始まり)
- 反乱側の中枢を担ったのは反乱開始と同時に設置された防衛評議会だったが、評議会はフランコを総司令官兼国家首長に任命した。
- 当初の反乱軍指導者はモラ将軍だったが、このときから沈着で実務者型のフランコが反乱軍の表面に立つことになった。
- フランコは、反乱開始と同時に、反乱軍を援助したドイツ、イタリアとの交渉にあたって反乱軍内部での地位を高めていった。
- 1937(昭和12)年、創立者ホセ・アントニオを失ったファランヘ党の指導者となって、軍事だけでなく共和主義に対抗する政治運動をも指導するようになる。
- 1939(昭和14)年、共和国政府は消滅し、フランコの戦闘終了宣言によって、内乱は終結。(スペイン内乱終結)
- 9月に第2次世界大戦が勃発すると、ファシスト国家としての性格を強めていたスペインは、ドイツ、イタリアから参戦の要請を強く受けたが、中立を守った。
- 内乱の終結に前後して、スペインは日独伊三国防共協定(日独伊三国同盟)に参加していたし、国際連盟を脱退していたが、経済的にアメリカとイギリスに依存するところが大きかったために、ドイツ、イタリアの側にたつことはできなかった。
- しかし、ドイツへの義勇軍の派遣などから、第2次世界大戦が終了すると、新しく発足した国際連合はスペイン排斥決議を行い、スペインは国際社会から孤立することになる。
- 1947(昭和22)年、フランコはむしろ孤立化を利用して、国家首長継承法を公布し、自ら終身の国家首長の地位を確定するとともに、スペインが王政であることを明記し、アルフォンソ13世の孫、ブルボン家のフアン・カルロスを王位継承者として承認する。
- 以後スペインはフランコが死去するまでは、王位継承者はいるが実際の王はいない王政という奇妙な体制が続くことになる。
- 1950年代(昭和25-)、冷戦が進むと、西側諸国の対スペイン政策は軟化する。
- 1953(昭和28)年、アメリカとの軍事援助協定が結ばれ、スペインは国際社会に復帰した。
- これに対応して、フランコは自給自足体制から自由主義的開放体制への転換を図る。
- アメリカをはじめとする外国資本の導入は、スペイン経済を急速に近代化し、内乱終結後のフランコによる旧共和派支持者に対する弾圧は過酷をきわめたものだったが、このような近代化の促進の中で新しい世代が台頭し、また言論統制も1960年代(昭和35-)に入って緩和された。
- 1969(昭和44)年、自分の後継者としてフアン・カルロスを新王政の国王として迎えると表明。
- 1973(昭和48)年、国家首長の地位には留まったものの、首相の座を退く。
- 1975(昭和50)年、マドリードで死去。
- フランコの死後、フアン・カルロスがフアン・カルロス1世として即位、国家元首となり、スペインは立憲君主制に移行した。
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