イタリア・人物
ムッソリーニ Benito Mussolini
  • 1883(明治16)年-1945(昭和20)年
  • 1922(大正11)年に首相となって独裁的な権力をにぎり、20年余りにわたってファシズム国家を指導した。
  • アナーキズムの傾向をもつ鍛冶(かじ)職人を父、小学校教諭を母としてロマーニャ地方に生まれた。
    • 師範学校を出て教員になったが、やがて社会党系のジャーナリストになる。
  • 1911(明治44)年、リビア領有をはかったイタリアと、リビアの宗主国オスマン帝国との戦争(1911(明治44)年〜12)に反対して投獄される。
  • 1912(大正元)年、社会党全国大会で主流の穏健派を痛烈に攻撃して注目され、党の機関紙「アバンティ!」(前進)の編集長になる。
  • 1914(大正3)年、第1次世界大戦が勃発すると、当初、この戦争を帝国主義戦争であるとして、絶対中立の論陣を張ったが、まもなく一転して、ドイツ、オーストリアの側に立って参戦することを主張。
    • 社会党から除名されたため、独自に「ポポロ・ディタリア」(イタリア人民)を創刊して参戦論を展開した。
      • この新聞は後にファシスト党の機関紙になった。
  • 1919(大正8)年3月、ミラノで国家主義的な政治結社「戦闘ファッシ」を結成し、ファシズム運動を開始した。
    • この組織の名は、古代ローマの執政官の象徴だった、束ねた棒に斧をつけたファスケス(束桿:そっかん)に由来するものだったが、国家主義・反議会主義・反社会主義の傾向は、中流下層の人々に支持されて急激に勢力を拡大させた。
  • 1921(大正10)年、下院議員となる。
  • 1922(大正11)年、ファシストを指揮してローマ進軍を行い、国王ビットリオ・エマヌエレ3世に圧力をかけ、組閣の命令を獲得した。
  • 1925(大正14)年から暴力を用いて反対勢力を壊滅させるようになり、翌年には独裁的な権力をにぎり、以後ドゥーチェ(指導者)の地位を維持した。
    • ファシズム政権は、経営者と労働者を職種ごとに党の管理する組合として組織し、イタリアを「協調組合国家」として再編成した。
    • そして、国家の主導のもとに産業を再編するとともに公共事業や軍需生産の拡大で景気の浮揚をはかり、また19世紀以来対立していたローマ・カトリック教会との間にラテラノ協定(1929(昭和4)年)を結んで、伝統的な上層階層を味方につけたが、反対勢力に対しては徹底的な暴力によって弾圧した。
  • 1935(昭和10)年、国際連盟の勧告を無視してエチオピア侵略を開始したが、こうした領土拡張政策はイタリア国民には支持されたが、国際社会からのイタリアの孤立を招いた。
  • 1936(昭和11)年、スペインで内乱が起きると、フランコを支援して軍事介入を行う。
  • 1937(昭和12)年、国際連盟を脱退。
  • 1939(昭和14)年、アルバニアを占領。
  • 1940(昭和15)年、日独伊三国同盟を結成して、世界的な侵略戦争の一環を担うことになった。
    • 6月、ドイツがフランスに侵攻するとイタリアは第2次世界大戦に参戦したが、フランス攻撃、ギリシャ侵攻、エジプト侵攻はいずれも失敗し、大戦中の軍事的役割は少なかった。
  • 1943(昭和18)年7月、国王はムッソリーニを解任し、9月にイタリア南部に上陸した連合軍と休戦協定を結んだ。
    • ムッソリーニはグラン・サッソの山中に監禁されていたが、ドイツ軍に救出され、その支援で北イタリアに「イタリア社会共和国」をつくった。
      • しかし、ドイツ軍の敗退が続く中で、それは名目だけのものにすぎなかった。
  • 1945(昭和20)年4月、パルチザンに攻撃されてドイツ軍とともに逃亡しようとしたが、北イタリアのコモ湖畔で捕えられ、28日、愛人のクララ・ペタッチとともに銃殺された。
  • 参考:エンカルタ2007
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2010.07.10

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