歴史
東京裁判 とうきょうさいばん
  • 正式名称は極東国際軍事裁判(International Military Tribunal for the Far East)。
    • 東京の市谷(いちがや)旧陸軍士官学校大講堂(新宿区)を法廷にしたので、東京裁判と通称される。
  • 連合国はポツダム宣言にもとづき、ナチス・ドイツの戦争指導者を裁いたニュルンベルク裁判にならい、連合国最高司令官の命令下で東京裁判を行った。
    • 問われた戦争犯罪は、従来の国際法による通例の戦争犯罪(B級)だけでなく、侵略戦争の計画・開始・遂行など平和に対する罪(A級)と、非人道的行為など人道に対する罪(C級)。
      • A級に問われた主要戦犯が東京で裁かれ、その他のB・C級戦犯は連合国各国の法廷で裁かれた。
  • 裁判官は連合国12カ国から任命された11名。
    • 1928(昭和3)年の張作霖爆殺事件から敗戦までが訴追対象とされ、被告は日米開戦時の首相東条英機など28名で、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)(東京都豊島区)に留置された。
    • 弁護には日米の50名があたった。
  • 裁判は、1946(昭和21)年5月3日にはじまり、417日の開廷で419人の証人を調べ、1948(昭和23)年11月12日に判決の言い渡しが終わった。
    • 判決内容は、公判中に死亡・免訴となった3名を除いて全員有罪。
      • 絞首刑
        • 東条英機
        • 土肥原賢二(元陸軍大将、満州事変の企画実行に参加)
        • 広田弘毅(元首相、南京虐殺の外交責任)
        • 板垣征四郎(元陸軍大将、満州事変の実行)
        • 木村兵太郎(元陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
        • 松井石根(元陸軍大将、南京虐殺時の中支那方面軍司令官)
        • 武藤章(元陸軍中将、参謀本部作戦課長時に日中戦争拡大を計画)
      • 終身禁固刑16名、禁固刑2名。
      • 絞首刑は同年、1948(昭和23)年12月23日に執行。
  • 東京裁判は国内外で多くの問題を提起した。
    • 同じ植民地主義を実行しながら戦勝国だけが裁けるのかという根本的な問題、また戦後に制定された平和に対する罪や人道に対する罪で、それ以前の行為を裁くことができるかなどの法的問題も提出された。
    • 占領を円滑に行うためという政治的理由から天皇の戦争責任を免責するという問題も残した。
    • 戦争への共同謀議についても見解が分かれ、インドのパル判事は全員無罪の少数意見を出している。
  • 多くの日本人は、中国への侵略戦争、南京虐殺、日米開戦のいきさつなどをはじめて知ることになった。
    • 敗戦の痛手の中で生活に追われる日本人は、独自の立場からの戦争責任の追及はできず、連合国の裁判を受け入れるだけだった。
  • この裁判で示された歴史観は、その後の日本人の平均的な歴史観となったが、それに反対し戦争をアジア解放のためだったとする民族派の見方も、占領終了後引き続き残ることになる。
    • 自力で戦争責任を追及しなかったことによる課題も多く、捕虜虐待の罪に問われたBC級戦犯では、旧植民地の朝鮮・台湾出身の末端の軍関係者が責任をとらされる弊害も生み、のちの戦後補償要求の根を残した。
  • 参考:エンカルタ2007
2010.07.02

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