築地本願寺
つきじほんがんじ
(正式名称:本願寺築地別院) |
東京都中央区築地3丁目 |
グーグルアース座標=N35 39 59.37 E139 46 20.23 |
地図 |
撮影日:P1=2004/12/13 P2〜4,6〜9,16=07/12/20 P10-1=10/11/26 P5,10-2,11〜13=12/12 P14,15=11/2/16 |
写真1
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概要 |
- 本願寺(通称・西本願寺/京都府京都市下京区)の築地別院
- 浄土真宗本願寺派の関東における拠点
- 1934(昭和9)完成の古代インド様式の建築が異彩を放つ
- 堂内に1970(昭和45)年に寄進されたパイプオルガンがある
- 毎月最終金曜日午後12時20分から30分間、無料で演奏会が行われている
- 歴史:
- 1617(元和(げんな)3)年に現在の中央区の北端に前身となる御坊が建立された
- 浅草(台東区)に近いことから江戸浅草御坊と呼ばれていた
- 1657(明暦3)年、「振袖(ふりそで)火事」と呼ばれる明暦の大火により江戸のほぼすべてが焼失
- 幕府の復興事業による区画整理のため本願寺は寺領を失う
- 海上を埋め立てて、本願寺を再興する
- 1923(大正12)年の関東大震災で、直接の倒壊は免れたが、直後に起こった火災により焼失する
- 宗主大谷光瑞と設計者伊東忠太の出会い
- 東京帝国大学(現・東京大学)教授の伊東忠太(1867-1954(昭和29)年)が、若いころ「法隆寺(奈良県奈良市)の柱のふくらみは、ギリシア神殿の柱に見られるエンタシスが起源」との学説を発表
- 法隆寺の起源を求めてギリシアに向かったり、中国、インドと風任せの旅で仏教の起源に触れた
- 西本願寺第22世宗主(しゅうしゅ)の大谷光瑞(おおたにこうずい・1876(明治9)年-1948(昭和23)年)が送り込んだ探検隊の一行と伊東が中国で出会う大谷の探検隊もシルクロードで仏教の源流を探っていた
- 1890(明治23)年にイギリスに留学した大谷は、ヨーロッパの探検家たちがアジアで多くの仏教遺跡を発見したことに驚くとともに、仏教の研究で、日本がキリスト教国に先を越されていると感じる
- 仏教の起源を探るのは仏教徒の責務だと感じた大谷は1902(明治35)年から第3次までの探検隊を送り込む
- 帰国後、大谷と伊東は交流を深め、後に伊東が築地本願寺の設計をすることになる
- イギリスやドイツが国家事業として送り込んだ探検隊よりも規模が大きかったため、大谷家の財政は悪化
- 1914(大正3)年、大谷は責任をとって西本願寺管長を辞職する
- 一線を退いていた大谷は1934(昭和9)年に築地本願寺を再建する
- 再建当初は多くの人が違和感を覚え反発も多かったという
- 建物各所には、伊東が中国・インドで感じた仏教感をもとにした想像上の動物のような彫刻が配されている
- 「三蓄評樹(さんちくひょうじゅ)」の説話
- 伊東が彫刻のモチーフとした仏教の伝承の一つ
- 鳥・猿・象の三者の中で最も非力な鳥が、空を飛べることから、樹木の全体を見渡すことができる
- 「物事は、全体を見渡すことが重要」という教え
- 堂内ではこの三者の順に配置されている
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