- 享保の飢饉・天明の飢饉と並ぶ江戸時代の三大飢饉のひとつ。
- 1833年の大洪水と冷害で、東北地方の収穫量は例年の約3割、関東でも約7割となり、餓死者も出た。
- 不作の年はさらに続き、1836年には冷害とたび重なる暴風雨のため九州や四国を除く地域で大凶作となり、収穫量は全国平均で約4割にまで落ち込んだ。
- このため翌1837年にかけて大飢饉の状態になり、一説では全国の餓死者・病死者は20〜30万人に及んだといわれる。
- 東北各地の窮民の間に、生まれたばかりの赤ん坊を殺す間引きや捨て子が相次ぎ、農地を捨てて都市部に流入し、行き倒れる者も多かった。
- 1836年には甲州郡内騒動・三河の加茂一揆(かもいっき)などの百姓一揆が各地で起こった。
- しかし、天明の飢饉での経験がいかされ、農村のなかでも凶荒に備えて、ある程度の貯穀があったため、地域によっては被害の少ないところもあったという。
- 幕府や諸藩はお救い小屋を設置して、窮民に粥(かゆ)や米を与え、年貢の減免や夫食米(ふじきまい)の貸し付け、現金収入のための土木事業であるお救い普請(ぶしん)などの対策を講じた。
- 酒造制限令や物価引き下げ令なども出されている。
- 都市部でも米価がはねあがり、都市下層民の生活を圧迫したため、江戸や大坂では大規模な打ちこわしが相次いだ。
- 1837年に起きた大塩平八郎の乱は各地に飛び火し、同年、越後国柏崎(新潟県柏崎市)では生田万の乱(いくたよろずのらん)、摂津国能勢(のせ:大阪府能勢町)で山田屋大助の騒動などが次々起こった。
- 飢饉後の復興は幕府の大きな課題となり、天保の改革では荒廃した農村の復興策が打ち出された。
- 二宮尊徳や大原幽学らが行って効果をあげた農村立て直し仕法も、天保の飢饉で荒れ果てた関東農村を対象としていた。
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