歴史
享保の飢饉 きょうほうのききん
  • 天明の飢饉天保の飢饉と並ぶ江戸時代の三大飢饉の一つで、1732年(享保17)(江戸時代中期)、中国・四国・九州と近畿の一部を襲った大飢饉。
  • 前年からの天候不順のため作物の成育が悪く、これを原因に大量発生した害虫が稲を食い尽くしたことから大飢饉となった。
    • 「日本災異誌」によると、例年の収穫量の半分以下の藩が西日本を中心に46藩あり、そのうち27藩は2割以下の収穫だったという。
    • 餓死者は1万2000人を超え、1万4000匹以上の牛馬が死んだといわれる。
    • 伊予国松山藩の被害はとくにひどく、年貢収入はゼロで領内の餓死者が3489人いた。
  • 飢饉後、幕府・諸藩はすぐに救済に乗り出した。
    • まず被害のなかった東日本から西日本に米を送り、被害のあった大名旗本には幕府から金銀が貸与された。
    • 幕府領では夫食(ふじき)米が窮民に支給され、富裕者はすすんで救済を行うよう命じられた。
    • 翌年は豊作で、飢饉は1年でおさまった。
  • しかし、江戸に入るはずの米の一部を被災地にまわしたため江戸の米価がはねあがり、翌年、初めて江戸で打ちこわしが起きた。
    • 米を手に入れられなくなった日雇い・棒手(ぼて)振りなどの都市下層民が、米の買い占めのうわさのあった米問屋筆頭の高間伝兵衛の日本橋店を襲った。
  • 参考:エンカルタ2007
*2011.01.08

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