- とくに1783年(天明3)は大凶作で、東北地方を中心に深刻な被害が出た。
- 前年からの冷害で収穫量が少なかったところに、この年も春から風雨が続き、夏になっても寒さがきびしいという天候不順が主な原因だった。
- 収穫は平年の約4割といわれ、山間部ではまったく収穫のなかったところも多かった。
- 天候不順に加えて、この年7月の浅間山(長野・群馬県境)の大噴火で関東・甲信越から東北地方まで火山灰が降り、日照を遮ったために、こののち数年間冷夏が続いた。
- 東北諸藩の廻米(かいまい)と津留(つどめ)政策で被害をさらに拡大させた。
- 自領の米が流出しないよう行った津留が米の流通を止め、さらに江戸や大坂の商人からの借金で慢性的な財政危機にあった領主は年貢米も江戸・大坂に送ってしまったため、藩元では米穀が不足し餓死者を増やした。
- 人々は草根をはじめ、犬猫や死人の肉まで食べたともいわれ、1784年には衛生状態の悪化から疫病が大流行した。
- 最大の被害が出た弘前藩では、死者13万人余、他国に逃れた者が2万人あったという。
- 1785年に東北地方を旅行した菅江真澄は、紀行文「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」に、農民がいなくなった寒村の草むらに白骨が数多く散乱する様子を記(しる)している。
- ただし同じ東北地方でも、これより前に荒廃した農村の復興に力を入れていた上杉治憲の米沢藩や、のち寛政の改革を進めた松平定信の白河藩では被害が極めて小さかったことからすると、人災が被害を大きくした面が非常に強かった。
- 幕府や諸藩ではお救い小屋を設けて、窮民に粥(かゆ)や米を与えたが、あくまで応急処置で、1787年の飢饉のときは米価の高騰から江戸・大坂で大規模な打ちこわしが頻発した。
- また、寛政の改革では、飢饉対策が改革の柱の一つとされ、義倉(ぎそう)・囲米など飢饉に備えた貯穀や、江戸流入の流浪農民の帰農奨励が実施されることになった。
|