- 1861(幕末)-1930(昭和5)年
- 幕末に高崎藩士の息子として江戸に生まれる。
- 明治維新後の激動の中、東京で英学を学んだ後、1877(明治10)年、札幌農学校(北海道大学の前身)に入学、クラークの感化を受けた先輩たちからキリスト教信仰を学び、翌1878(明治11)年にはメソディスト派の宣教師ハリスより受洗。
- 農学校卒業後、一時水産関係の役人となるが、1884(明治17)年にはアメリカに遊学。
- 帰国後、各地で教職に従事するが、第一高等中学(旧制一高)時代の1891(明治24)年、信仰上の理由から天皇の教育勅語への敬礼を拒否していわゆる「不敬事件」を起こし、職を失う。
- 浪人時代には主として京都に住み、「基督(キリスト)信徒の慰め」「求安録」(ともに1893)、「日本および日本人」(1894、英文。後に「代表的日本人」と改題)、「余は如何(いか)にして基督信徒となりしか」(1895、英文)などを書き、またキリスト教青年会で「後世への最大遺物」と題する講演(1894)を行うなどして、文筆家、思想家としての名声を確立する。
- 1897(明治30)年、東京に戻り、日刊新聞「万朝報」の英文主筆に就任、翌1898(明治31)年には自ら「東京独立雑誌」を創刊して、政治評論や社会批判に健筆をふるう。
- 1900(明治33)年頃からは、従来のキリスト教の伝統や教派にとらわれず、教会組織も儀式的礼拝も持たない独特の無教会主義の運動を始め、毎週、自宅で聖書講義を行うとともに、雑誌「聖書之研究」や「無教会」を通じた文書伝道を行い、知識人や学生を中心に多くの追随者を得る。
- 他方で足尾鉱毒事件に際しては田中正造を支援し、また、堺利彦や幸徳秋水らと社会改良団体「理想団」を結成するなど、社会運動にも積極的に関わった。
- 日露戦争に向かう緊張時には、非戦論を説く。
- 日露戦争(1904〜05)後はしばらく聖書研究と無教会運動に専念したが、第1次世界大戦(1914〜18)末期には、その悲惨な体験を受けて、キリストの再臨による歴史の完成と世界平和の実現を希求する再臨運動を展開した。
- 内村は「2つのJ」、イエス(Jesus)と日本(Japan)に仕えることと規定し、熱心で敬虔(けいけん)なキリスト者であり、欧米の文化や歴史に深い関心と知識を持った国際人であるとともに、日本を愛し日本人を愛した愛国者でもあった。
- 墓石には遺志により英文で「日本のためのわたし、世界のための日本、キリストのための世界、そして神のためのすべて」と刻まれている。
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