- 正式には「教育ニ関スル勅語」という。
- 1890(明治23)年に発布され、第2次世界大戦終結まで日本の公的な教育観となった。
- 発布の経緯
- 1872(明治5)年、学制のもとで小学校教育の普及が図られ、その後1879(明治12)年の教育令、1886(明治19)年の学校令によって教育体制の整備が進めれたが、教育の基本理念については不確定だった。
- また、政府は自由民権運動の高まりに危機感を持ち、一方、天皇側近を中心とする儒教主義など伝統的立場の保守勢力は、自由民権思想の普及や欧化主義に反発し、道徳教育を教育の基本とすることを主張した。
- 大日本帝国憲法発布(1889)の翌年、山県有朋首相は地方長官会議での要求を受けて文部省に草案作成を命令。
- 法制局長官の井上毅と儒学者で枢密顧問官の元田永孚が原案を起草し、第1回帝国議会の開会直前に発布された。
- 内容
- 全文は315字からなり、3段に分かれる。
- 第1段は天皇の有徳と臣民の忠誠を延べ、第2段では父母への孝行や国の法を守るなど14の徳を示し、第3段でこれらの徳目は歴代天皇の遺訓であり、古今東西に普遍的なものであるとする。
- 内容は、家父長制の中での親子・兄弟・夫婦・友人間のあるべき姿や、修学・遵法・兵役などの義務の必要性を列挙したもので、儒教的道徳思想に基づく忠君愛国を基本とする。
- 明治天皇が決裁して発布後、文部省が謄本をつくって全国の各学校に配布。
- 入学式・卒業式などの儀式の際に奉読された。
- とくに小学校では勅語の精神を徹底させるよう指導し、その普及に大きな役割を担った。
- しかし発布の翌年(1891(明治24)年)、第一高等中学校嘱託教員の内村鑑三がキリスト教徒の立場から教育勅語謄本への拝礼を拒否、その職を追われる事件が起こった。
- 以後、政府はこうした事件を利用しながら勅語の神聖化と国民への浸透をはかり、とくに戦時下には国民道徳の絶対的基準として圧倒的な力を持った。
- 第2次世界大戦後の1948(昭和23)年、衆参両院で廃止が決議され、謄本は回収・処分された。
- しかしその後、天野貞祐(ていゆう)文相や田中角栄首相が教育勅語を擁護する発言を行ったほか、中曽根康弘内閣以後は憲法改正問題が浮上するたびに天皇制再検討の動きとからみ、その再評価を巡って論争がくりひろげられている。
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