人物 |
国定忠治 |
くにさだ ちゅうじ |
- 「赤城の山も今宵限り・・・」の名ゼリフでよく知られる江戸時代後期の博徒。
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- 1810〜1850
- 「忠次」とも書かれる。
- 人物史
- 現、群馬県伊勢崎市(いせさきし)国定町である国定村の裕福な農家に生まれる。
- 19歳で博打に手を出し、博徒の親分に見込まれて縄張りを譲られてから、しだいに勢力を広げる。
- 1834(天保5)年、縁のある三ツ木村の文蔵を助けて島村の伊三郎を殺害し、博徒の世界で名をあげたが、俗に八州回りと呼ばれた関東取締出役の探索を受けることになった。
- そのため、このころから赤城山を根城にするようになったらしい。
- 1842年、里で博打の最中に八州回りの急襲を受けたがどうにか脱出。
- その八州回りの手先の道案内役を殺害したため追及が厳しくなり、大戸(現・群馬県東吾妻町)の関所を破って信濃へ逃れた。
- 上野国に戻ったのは1846年(弘化3)という。
- 1849(嘉永2)年、子分に縄張りを譲り、翌1850年に故郷へ戻ったが、まもなく脳出血で倒れ、ついに捕えられる。
- つくられたイメージ
- 忠治が病床につくまで幕府の追及をかわしたことにより、人々がある種の痛快さを感じるイメージが生まれたと考えられている。
- このイメージは、忠治を権力への反抗者として美化する方向へ向かい、実録の体裁をとる「嘉永水滸伝(かえいすいこでん)」に始まり、明治期には様々な作品がつくられた。
- 講談や浪曲の題材にもなり、とくに1919(大正8)年、新国劇が沢田正二郎主演で「国定忠治」を演じてから、改作を重ねて新国劇の代表作となった。
- それと同時に、貧しい農民を救済する忠治の義侠像が定着し、その後も、小説や映画がつくられた。
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- 名ゼリフ
- 「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ)たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」
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関連 |
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関連HP |
国定忠治公式ファンクラブ |
■忠治が追手から逃れて来た「大黒屋」の撮影用顔出しパネル・・・猿橋(山梨県大月市)
2011/5/12 |
2011.02.08 |
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