韓国
白村江の戦 はくそんこうのたたかい
はくすきのえのたたかい
  • 7世紀後半(日本-飛鳥時代)に朝鮮半島で中国()・新羅連合軍と日本の百済救援軍との間で起きた海戦。
  • 白村江は現、韓国南西部の主要河川である錦江(きんこう・クムガン)の近郊。
  • 唐の支配体制におさまらない高句麗に対し、唐は644年遠征軍を派遣する。
    • 日本は、朝鮮半島での国益を脅(おびや)かされるとして唐の動きに危機感をもった。
    • 645年(大化元)成立した大化の改新政府は高句麗・百済と連合し、唐軍を迎撃しようとしたが、新羅は高句麗・百済の圧力をはねのけるため唐と連合した。
    • 唐は高句麗の強い抵抗に手を焼き、660年に背後の百済に侵入。
      • 王都の扶余(ふよ)を急襲して義慈王(ぎじおう)と太子らを捕え、百済を滅ぼした。
  • 百済王室は滅んだが百済の豪族たちは無傷だった。
    • 百済では鬼室福信(きしつふくしん)・黒歯常之(こくしじょうし)ら遺臣たちの反唐運動が盛んになり、長年にわたって百済と軍事同盟を結んでいた日本もこれを応援した。
    • 日本は人質として日本にいた百済王子の豊璋(ほうしょう)を百済に帰国させ、661年(斉明7)には斉明天皇・中大兄皇子らが百済復興軍の指揮を執(と)るため九州に向かった。
    • しかし斉明天皇の病気のため日本軍は動けず、また豊璋は福信を殺すなど内紛を起こし、防御に適した州柔城(ツヌサシ)を放棄するなど、状況の見極めに甘さがあった。
  • その間に南東から新羅軍に攻められ、あわてて戻った州柔城も孤立した。
    • 斉明天皇の死後を代行した中大兄皇子は、663年(天智2)3月、2万7000の水軍を前・中・後の3軍に編成して新羅軍を南側からつかせ、8月、豊璋と合流するために錦江(旧名白村江)を遡るため河口に向かった。
    • そこには劉仁軌(りゅうじんき)らが率いる唐の水軍170艘が新羅の要請で待機していた。
    • 日本軍は3軍構成で大船団を組んで突入したが、400艘以上を焼失して唐軍に敗れた。
    • 豊璋は高句麗に逃れて百済は完全に滅び、日本は唐軍に対する国防強化をせまられた。
  • 参考:エンカルタ2007
関連
■白村江の戦で戦死した阿曇比羅夫(あづみのひらふ)の像・・・穂高神社(長野県安曇野市)

2011/1/27
2011.08.15

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