- 626〜671
- 在位661〜671年(正式即位668)。
- 一般的には「てんちてんのう」と呼ばれているが「てんじ」が正しいらしい。
- 大兄(おおえ)の号を与えられて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)とも称した。
- しかし、そのために古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ/・・・のみこ)を推す蘇我入鹿(そがのいるか)と対立していた。
- また唐の隆盛ぶりや緊張する朝鮮半島の情勢を受けて、日本の将来に不安を持っていたようである。
- 645(大化元)年、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で乙巳の変(いっしのへん)を起こし、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原鎌足)たちとともに蘇我入鹿を倒して権力を奪った。
- そして保守派と急進派を均衡させた大化の改新政府を樹立。
- 自らは皇太子にとどまり、孝徳天皇を擁立して実権を握った。
- 翌年、「大化の改新の詔(みことのり)」を出し、県主(あがたぬし)・国造(くにのみやつこ)などによる分権体制から天皇を中心とした中央集権国家への転換を表明し、公地公民制(こうちこうみんせい)・班田収授制(はんでんしゅうじゅせい)・新税制・新行政区画の採用などを打ち出した。
- これらの実現には長期の下準備が必要だったが、中国の官制を手本にして中央官僚機構を整備し、冠位制の適用範囲の拡大などに努めた。
- 670年(天智9)、庚午年籍(こうごねんじゃく)という全国規模の戸籍をしあげるなど、天智朝末年までにかなりの成果をあげた。
- しかし、政府の最大の課題だった外交ではつまずいた。
- 唐の朝鮮半島への侵攻は思ったより迅速で、660(斉明6)年、かねて同盟関係にあった百済王家が滅亡した。
- このため当時日本にいた王子・豊璋(ほうしょう)をたてて唐・新羅連合軍に戦いを挑んだが、663(天智2)年、白村江の戦(はくすきえのたたかい/はくそんこうのたたかい)で大敗し、百済再興は果たせなかった。
- 日本はむしろ唐軍の報復的な来襲に備え、北九州に防人を置き、大宰府(だざいふ)に水城、また西日本に烽(とぶひ)(のろし)を置いて臨戦態勢に入った。
- しかし豪族たちが改新政策を受け入れてきたのは、朝鮮半島での勝利が前提だった。
- それが失敗したことで豪族の不満は強まり、天智天皇は翌664年、民部(かきべ)・家部(やかべ)など私有民の一部復活を認めて懐柔にあたる一方、667年には近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷都して圧力をしのいだ。
- 晩年には、実力者だった弟の大海人皇子(おおあまのおうじ/・・・のみこ・後の天武天皇)を後継候補から外し、子の大友皇子(おおとものおうじ/・・・のみこ・後の弘文天皇)を事実上指名したことで、壬申の乱(じんしんのらん)の原因をつくった。
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