- ?〜1189
- 号を武蔵坊(むさしぼう)という。
- 源平の合戦で、義経のもとで大いに活躍した。
- のち義経は兄の源頼朝と不仲となり、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って陸奥国平泉(現・岩手県平泉町(ちょう))に逃れるが、そのときも義経に従っている。
- 1189年(文治5)衣川の戦(ころもがわのたたかい)で義経とともに戦死したが、このとき弁慶は敵の矢を全身に受けながら、立ったままで死んだといわれている。(→立ち往生)
- 室町時代以降、「義経記」をはじめとした文芸作品が、弁慶の出生から死までを具体的に語り、今日知られるような弁慶像をつくりあげていく。
- これらの作品で弁慶は、英雄豪傑として描かれ、そこから様々な伝説が生まれた。
- 山門を追放された弁慶は、諸国を修行してあるき、のち京都に出て他人の太刀1000本を奪う悲願をたてた。
- ちょうど1000本目で義経に出会い、清水観音で太刀を奪おうとするが、逆にやりこめられて彼の家来となった。
- これが名高い弁慶と牛若丸(義経の幼名)の対戦のエピソードで、のち対戦場所を五条橋とすることで、橋弁慶伝説となった。
- とりわけ、山伏に姿を変えて平泉をめざし、落ちのびていく義経一行が、愛智(あらち)の関や如意の渡しを、弁慶の機転で無事通過できた話はよく知られる。
- これは後に、安宅(あたか)の関での話として集約されて安宅伝説となり、能の「安宅」や、さらには歌舞伎十八番のひとつ「勧進帳」(かんじんちょう)の題材にもなった。
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