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        発端
        
          絵島は6代将軍の側室、月光院に仕え、出世して大奥をたばねる大年寄の地位になる。
          
          1714年(正徳4)に、月光院の名代として寛永寺(東京都台東区)、増上寺(東京都港区)に参詣した帰りに、お供の女中たちとともに芝居小屋で芝居見物をした。
          そのため、江戸城の門限に遅れたことをとがめられ、裁かれることになる。
          絵島は芝居小屋の役者、生島新五郎との密会を疑われた。
        裁決
        
          大奥の風紀が乱れていることを理由に、多数の連座を問われ、子どもまで含めて1500人にも及んだ。
          絵島は当初、死罪を言い渡されたが、月光院の嘆願により、罪一等を減ぜられ、高遠(現、長野県伊那市→絵島囲み屋敷参照)への遠流(おんる・・・死ぬまで流される)となる。
          絵島は33歳で流され、61歳で亡くなるまで幽閉された。
          旗本だった絵島の兄は死罪、弟は重追放になった。
          また、その他の旗本、藩士、商人など多くの人びとが遠島(島流し)や追放などになった。
          相手とされた役者、生島新五郎は三宅島(みやけじま)(現・東京都三宅村)への遠島になる。
          また、芝居小屋の責任者も遠島になり、その芝居小屋は断絶になる。
          また、芝居関係者も処罰されたうえ、京や大坂(現、大阪)の芝居小屋まで、簡素な造りへの改築を命じられ、夕暮れの営業まで禁じられたため、当時の演劇界は大打撃を被った。
        背景
        
          大奥での正室や側室、大名や老中などの派閥の争いがあり、絵島はそれに利用され、スキャンダルをでっちあげられたとも言われている。
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