モンゴル・人物
チンギス・ハーン
(ジンギスカン)
Chinggis Khan
  • 1167?〜1227(日本-平安時代末期〜鎌倉時代前期)
  • 在位1206〜1227年。
  • 名はテムジン。
  • モンゴル高原北東部をながれるオノン川上流の地で生まれる。
    • 父イエスゲイは、タタール部族との戦いに活躍したが、テムジンが幼少のときに毒殺され、テムジンは貧苦のうちに成長したといわれる。
    • 父の盟友らの助けでモンゴル部族の1指導者となり、さらにモンゴル内の対抗勢力を押さえて部族長の地位を得、タタールなど他部族をも討ち破っていった。
  • 短期間に軍事的才能を発揮したテムジンは、1206年には、モンゴル高原の支配者となっていた。
    • その年、彼に服従した部族代表による議会(クリルタイ)が開かれ、彼を、統合モンゴルとタタール族の指導者チンギス・ハーン(中国語の「成吉思汗」の成吉は、すぐれた武人を意味し、トルコ語の「ハーン」は領主を意味する)であると宣言し、モンゴル帝国を建てる。
  • 中国征服を開始し、1208年には万里の長城の内部に拠点を確保し、1213年には金王朝(1115〜1234)支配地域の南部と西部に兵を進め、さらにとどまることなく山東半島に達した。
    • 1215年、中国北部における金の最後の砦、中都(現ペキン)を占領。
    • 1218年、朝鮮半島を支配下に治める。
  • 1219年、モンゴル使節団の殺害に対する報復として、現在のイラク、イランと西トゥルケスタンの一部を含む広大なホラズム・シャー朝を攻撃するため、軍勢を西方へ向ける。
    • 略奪と虐殺によって、モンゴル軍は全トゥルケスタンを征服し、ブハラとサマルカンドを占領。
    • 現在のインド北部、パキスタン地域では、ペシャーワルとラホールなどの諸都市と、その周辺地域を征服。
    • 1222年、ロシアに侵入、ボルガ川、ドニエプル川一帯の領域を奪い取る。
  • 交易商人が恐怖と危険なく、領土の端から端までを自由に往来できるように常に関心をはらい、その結果として、帝国は高度に組織化されたものとなる。
    • 1227年、彼の死に際して、モンゴル帝国は4人の息子に分割される。
  • 日本ではかつてジンギスカンと呼ばれた。
  • モンゴルの首都ウランバートルから東へ約250kmの草原にあるアウラガ遺跡がチンギス・ハーンの宮殿「大オルド」と考えられた。
    • 2001年(平成13)から日本・モンゴル合同調査団が同遺跡を発掘してきた。
    • 東西約1200m、南北約500mに及ぶ遺跡のほぼ中央に約25m四方の基壇跡を発見、基壇の上には霊廟の跡とみられる一辺約11mの石積みの遺構が見つかる。
    • 周囲からは焼けたウマや牛などの骨と灰がつまった「焼飯(しょうはん)」とよばれる祖先祭祀(さいし)の痕跡も出土した。
    • 2004(平成16)年、遺構の位置や出土物が史料と一致しているとして、ここがチンギス・ハーンの霊廟跡と結論づけた。
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2010.02.19

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