- 18世紀後半(日本-江戸時代中期)から19世紀初頭(日本-江戸時代後期)にかけて欧米列強は、新しい市場と資源の可能性を求め、国への進出を開始した。
- 特にイギリスの国策企業東インド会社は、中国貿易に精力的に取り組んだ。
- 同社の経営は、イギリスの工業製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへという三角貿易から成り立っていた。
- 当時、中国国内ではアヘンの広がりが大きな社会的問題となっており、清朝政府はアヘンの輸入をたびたび禁止した。
- しかしイギリス東インド会社は、私貿易商人を通じてアヘンを清に密輸出し続け、清朝の官界にもアヘンが浸透していった。
- その結果、清朝政府内にアヘン輸入の厳禁派と弛禁(しきん)派の対立が生じ、さらには清朝政府とイギリス政府の通商外交関係の緊張が高まることになった。
- 1839年、清朝政府からアヘン禁絶の役目を命じられた革新的官僚の林則徐は、広州に赴(おもむ)きアヘン厳禁の布告を出し、外国商館を封鎖した。
- さらにイギリスの商務監督官を監禁、アヘン2万箱を海洋投棄処分にした。
- しかし中国全土の市場化をもくろむイギリスは、これを口実に清との戦闘準備を整えた。
- 九竜港近くで清朝海軍とイギリス船が砲火を交えたのをきっかけに、両国は戦争に突入した。
- 1840年、約4000人のイギリス海軍は広州、厦門(アモイ)を攻略、浙江の定海を占領、天津港に迫った。
- この事態に直面し、清朝政府内では弛禁派が勢力を拡大、イギリスが要求した、アヘン貿易の許可と焼却されたアヘンの賠償、香港の領土割譲などに対して、直隷(ちょくれい)(君子直属)総督g善(きぜん)を交渉に当たらせた。
- しかしg善がイギリスの要求に全面的に屈服して仮協定を結ぶと、政府は彼を罷免した。
- 1841年、イギリス軍は再度広州を攻略、アモイ、寧波(ねいは:ニンポー)と北上して清朝防衛軍を撃破する。
- 1842年、上海、続いて鎮江を鎮圧。
- 清朝政府は全面的にイギリスに屈服、南京(なんきん)条約が結ばれ、アヘン戦争は終結した。
- 条約には香港の割譲、賠償金、上海・寧波・アモイなどの開港と通商などが盛り込まれ、イギリスはさらに中国へ侵出する大きな足がかりを得た。
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