- 一般的には白瀬中尉として知られる。
- 1861(幕末)〜1946(昭和21)年
- 仙台第2師団配属中から北極探検を志し、1893(明治26)年に海軍大尉、郡司成忠の千島探検に参加、シュムシュ島(占守島)で3年余の過酷な生活を体験した。
- その後も北極探検の機会を狙っていたが、1909(明治42)年にアメリカのピアリー隊が北極点到達に成功したことを知り、目標を南極に変更。
- 1910(明治43)年、独自に南極探検を企画し、大隈重信の後援や新聞社などの協力を得て、船長以下27名乗り組みの開南丸で南極に向かった。
- 1911(明治44)年3月の最初の挑戦に失敗後、1912(大正元)年1月、日本人初の南極大陸上陸に成功。
- 白瀬と学術部長の武田輝太郎ら5人は、南緯80度5分の地点に到達したが、悪天候と食料不足などで続行を断念、到達点を大和雪原(やまとゆきはら)と命名して引き返した。
- すでにノルウェーのアムンゼン、イギリスのスコット隊が極点到達を成し遂げていたが、このときの日本人による独自の探検の意義は大きい。
- しかし、この探検にかかった費用は当時の金額で12万円以上だったといわれ、一般からの募金はあったものの政府からの援助金はなく、その半分以上が白瀬個人の借金として残った。
- そのため、南極探検後の後半生は苦難に満ち、不遇のうちに寂しく亡くなった。
- 現在、故郷である秋田県にかほ市に白瀬南極探検隊記念館がある。
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