イギリス・人物 |
ニュートン |
Isaac Newton |
- 科学の様々な分野に卓越した業績を残し、万有引力の法則の発見で有名な、イギリスの数学者・物理学者・天文学者。
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- 1642(ユリウス暦)(グレゴリオ暦1643年)〜1727(日本-江戸時代前中期)
- 1661年、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学。
- 大学では従来のカリキュラムの大半を無視し、興味のある数学や自然科学の分野を研究した。
- ほとんど独力で当時の数学の最先端に達して二項定理を発見し、また自然を複雑な機械のように考える新しい自然哲学の展開を探究し、科学研究を支える基本的な事柄をすぐに発見した。
- 曲線の接線を求める問題を解くものとして、運動する点の座標の瞬間的変化、つまり流率という考えから流率法(微分法)を案出した。
- また、曲線で囲まれた面積を求める逆流率法(積分法)を発見し、1666年秋にこの2つをあわせて数学の新しい分野(微積分法)をひらく。
- 微積分法の導入は、ギリシャ幾何学をこえる数学上の革新だった。
- ニュートンは微積分法を発見したにもかかわらず、発表しようとはしなかった。
- 一方、ドイツのライプニッツは、1675年に別個にほぼ同じ方法に到達し、これを微分法と名づけて公表している。
- 公表によって批評にさらされるのを嫌ったニュートンは、その発見を長く自分だけのものとしていた。
- しかし、ニュートンの豊かな才能を見抜いた彼の数学の師アイザック・バローは、1669年にその職を辞し、ニュートンにケンブリッジ大学のルーカス数学教授職を譲った。
- 対物レンズの代わりに反射鏡を使い反射望遠鏡を発明した。
- 反射望遠鏡を発明する過程で、もうひとつ大きな成果をえている。
- 白色光がすべての色の混合であり、白色光はプリズムでことなる角度で屈折して各色の光に分離されることを明らかにした。
- この色と光に関する論文を同じく1672年に王立協会におくったが、これが協会の学術誌「哲学会報」に掲載されると、イギリスの物理学者ロバート・フックら多くの無理解による批判や批評が寄せられて論議を呼び、ニュートンの発表恐怖症はますます強まることとなった。
- 以後、ケンブリッジでの孤独な研究生活にひきこもっていたが、1704年には「光学」を出版し、詳細にその光の理論を説明した。
- 万有引力の法則を導き出した。
- 地上でも天上でもおよそありとあらゆる物体は引力(重力)の影響をうけていると説明し、それらの運動を統一した理論を樹立した。
- この理論は1687年刊行の「自然哲学の数学的原理」(一般にはプリンキピアと略称される)に展開された。
- この書は科学史上に転換点をもたらすものとなり、ニュートンの名声を決定的にした。
- 「プリンキピア」が刊行された1687年、国王ジェームズ2世がケンブリッジ大学をカトリック化しようとしたことに対して、ニュートンは、これに反対する大学の委員として活躍した。
- 翌1688年、名誉革命によりジェームズ2世がイギリスから追放されると、大学代表の国会議員のひとりに選ばれた。
- 政府高官など新体制勢力との交友によって造幣局監事に任命され、1699年造幣局長官となった。
- 1717年、政府に1ギニー金貨を銀21シリングとすることを提言し採用され、イギリスが実質的な金本位制をとった始まりとなる。
- 1703年、王立協会会長に選ばれ、以後、生涯その地位にあった。
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■ニュートンのリンゴ 小石川植物園(東京都文京区)
2010/7/23 |
■ニュートンのリンゴ 大町エネルギー博物館(長野県大町市)
2005/5/31 |
*2010.07.25 |
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