和算 |
わさん |
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- 日本でも古くから数学は使われ、研究されていたと考えられている。
- 奈良時代や平安時代の巨大で規模の大きい構造物からも、数学の果たした大きな役割が感じとれる。
- 租税の取り立てなどにも数学が使われたと思われるが、それらの記録はほとんど残っていないという。
- 平安時代に「算の博士」という職制があったことはわかっている。
- しかし、それがどのような仕事をしていたのかは知られていない。
- 和算には、庶民の生活のための数学、純粋に数学として発展したもの、算額を残したような流れとがある。
- 庶民の数学
- 和算として、最初に登場する年代のはっきりしている書物は、1622(元和8)年(江戸時代初期)の「割算書(わりさんしょ)」。
- 1627(寛永4)年に出版された吉田光由(みつよし)の「塵劫記(じんこうき)」は、日常の役にたつ算数、計算術を述べたもので、江戸時代を通じて、改訂、重版を重ね、庶民に親しまれた。
- そろばんは、中国で15世紀ごろ(日本-室町時代中期)発達したものが日本に伝えられたという。
- それが、江戸時代、商業が栄えるとともに、計算術を助ける重要な手段となった。
- 純粋な数学
- 純粋に数学として発展した和算の流れの中で、高度な数学の研究がなされたことは注目される。
- 天才的な第一人者は関孝和(せき たかかず)で、それまでみるべき研究のなかった日本の数学に、たとえば行列式の発見のように、現代数学からみても驚くべき内容の研究業績をのこした。
- 当時、代数的計算は、算盤(さんばん)という碁盤目をひいた板の上に、算木(さんぎ)を並べて行われていたが、孝和はそれを紙に書いて行い、さらに変数に名前をつけて見やすく表す点竄(てんざん)術という方法を考案した。
- 孝和の門下には、円理の公式を得た建部賢弘(たけべ かたひろ)などの逸材がおり、関の偉業を引き継いだ。
- その流れをくむ数学は関流数学と呼ばれ、そこでは関は「算聖関孝和」とあがめられていた。
- 算額
- 和算家の人たちが自分の成果を誇るため、研究成果を額にして神社や寺に奉納したもので、円などの図形に関する問題が多い。
- その内容から、和算はお遊びにおちてしまったという評価もある。
- 算額には、問題と結果だけが書いてあって、結果にたどりつく思考過程が記(しる)されていないものが多いが、なかには当時の人の考え方や、問題の解き方をしのばせるものもあり、そのようなものは貴重である。
- 日本の数学研究は、中国で発展していた数学の研究をもとに始まったと考えられているという。
- 中国では、1世紀頃(日本-弥生時代中後期)には「九章算術」という書物がつくられていた。
- 日常の計算の技法を記したものだが、その後多くの研究者が輩出し、13世紀(日本-鎌倉時代)には非常に高度に発達し、代数計算ではヨーロッパより数世紀も先行していた。
- そのころの朱世傑(しゅせいけつ)の「算学啓蒙」や16世紀(日本-戦国時代・安土桃山時代)の程大位(ていだいい)の「算法統宗」は、江戸時代に日本でも何度も複刻され、研究されたらしい。
- 明治政府は和算の記号法を廃止して西洋数学の導入に力を入れたため、1900年代の初め頃には、和算を研究する人がいなくなってしまったという。
- 明治時代以前は「和算」という言葉はなく、西洋数学が導入され、「洋算」と呼ばれたのに対するものとして「和算」と呼ぶようになったいう。
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関連 |
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関連HP |
和算の館 |
NPO和算(WASAN) 和算を普及する会 |
和算研究所 |
2010.07.20 |
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