- 歴史
- 1610年(慶長15)(江戸時代初期)に発見され、当初は幕府領だったが、1626年(寛永3)日光社領となる。
- 1647年(正保4)から幕府直営の銅山として再開発される。
- 寛文〜貞享年間(1661〜88)が銅山の全盛期で、1676年(延宝4)には1300トンの丁銅(ていどう)(四角い板にした銅)を産出し、このころ長崎港から外国に輸出される銅のうち5分の1は足尾産の銅だった。
- 銅山の繁栄とともに大勢の人が集まり、「足尾千軒」とも呼ばれた。
- 元禄期(1688〜1704)になって産銅量が激減し、幕府から拝借金を得たり、寛永通宝の鋳造を行ったが経営は回復せず、19世紀になると廃山同様になる。
- 明治維新後、銅山は政府に没収され、1877(明治10)年、古河市兵衛に売却された。
- 市兵衛は、新たに銅の含有量の高い富鉱帯を発見すると、削岩機などの最新道具、技術を導入し、1890(明治23)年には日本で最初の水力発電所?をつくって産銅量を増やした。
- 1900(明治33)年の年間産出量6653トンは、全国産銅量の4割に相当した。
- こうした増産の背景で、銅山で廃棄された硫酸銅などの鉱毒が渡良瀬川流域一帯を汚染し、深刻な社会問題を引き起こす。
- 1907(明治40)年、飯場の廃止と賃金の値上げを要求する鉱夫たちが労働争議を起こし、暴動事件に発展。
- 第2次世界大戦後は乱掘により急激に産出量が減少、1973(昭和48)年に閉山した。
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