清少納言 せいしょうなごん
  • 966頃〜?
  • 父、祖父はともに有名な歌人だった。
    • 周囲には、ほかにも和歌や漢学に精通した者が多く、彼女は知的な雰囲気の中で、利発な少女として成長していった。
  • 981(天元4)年頃、橘則光と結婚して子をもうけたが、やがて離婚。
  • 993年から一条天皇に入内(じゅだい)した藤原道隆の長女、中宮(ちゅうぐう・皇后の称号)定子(ていし)に仕え、たちまち才女として頭角をあらわした。
    • 殿上人との交流では、漢詩文の問に対して和歌をもって切りかえす機知をみせ、サロンの花形として名声をほしいままにした。
  • 995年、関白道隆が死去し、権力が藤原道長の手に移ると、状況は暗転する。
    • 翌年、定子の兄弟である伊周・隆家の左遷事件が起こり、清少納言は道長方に内通しているとの噂をたてられ、宮廷を退出して自宅に閉居する。
    • このとき執筆されたのが「枕草子」の初稿とされ、そこには宮廷サロンの様子や、するどい感性による自然観照、人間分析などが鮮やかに定着されていく。
  • その後、中宮のそばに再度仕えたが、定子が24歳の若さで没してからは、再び人里離れて隠遁生活を送るようになった。
    • 「枕草子」は増補され、中宮定子の追憶は実像以上に純粋化されて、最終的に完成をみたと考えられている。
  • 紫式部の「紫式部日記」の中には、「したり顔にいみじう侍りたる人」という揶揄(やゆ)があるほか、漢詩文の知識をひけらかすとして批判的な見解が記(しる)されている。
  • 参考:エンカルタ2007
*2010.07.26

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