岡倉天心
おかくら てんしん
明治時代
の美術指導者・思想家。
1863〜1913(大正2)年
東京大学文学部在学中にアメリカ人教師で東洋美術研究家のフェノロサに出会い、1880年(明治13)の卒業後、文部省に勤務して古美術保存行政にたずさわる。
1889(明治22)年に美術誌「国華」を創刊。
東京美術学校(現・東京芸術大学)創立の準備をすすめる。
開校後の1889(明治22)年に校長に就任する。
横山大観
・
下村観山
らを育てる。
美術界での精力的な活動が一部の反感をまねいて排斥騒動にあい1898(明治31)年辞職。
同年、日本美術院をおこして美術運動の拠点とした。
1904(明治37)年からボストン美術館に勤務して日米間を往復した。
仕事も著述活動に比重が移り、アメリカで英文での著作「日本の覚醒」、「茶の本」を出版する。
参考:Microsoft エンカルタ2007
■岡倉天心が初代校長の現・東京芸術大学の
東京藝術大学大学美術館
(東京都台東区)
2006/12/16
■岡倉天心と親しく、天心の弟子、下村観山らを寄宿させて、三渓園グループという画壇をつくった原三渓の
三渓園
(神奈川県横浜市中区)
2005/4/8
2010.2.6
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