伊藤博文 |
いとう ひろぶみ |
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- 1841〜1909年(明治42)
- 中国・黒竜江省のハルピン駅で韓国の安重根により暗殺される。
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- 1963年(昭和38)〜1984年(昭和59)に発行された千円札の肖像画に使われた。
- 「いとう はくぶん」と呼ぶ人もいる。
- これは有職読み(ゆうそくよみ)といい、名前を音読みにして敬意を表す慣習。
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- 1841(天保(てんぽう)12)年、長州藩(現・山口県西北部)の農民の家に生まれる。
- 父が伊藤家の養子になったため、武士になる。
- 吉田松陰の松下村塾で学ぶ。
- 1863年(文久3)、イギリスに渡り、翌年帰国。
- 1871年(明治4) 岩倉使節団に加わり欧米諸国を視察する。
- 1882年(明治15) 憲法の調査のためヨーロッパに渡る。
- 1885年(明治18) 内閣制度を発足させ、初代総理大臣になる。
- 1889年(明治22) 大日本帝国憲法の発布を実現させる。
- 1890年(明治23) 帝国議会の開設にこぎつける。
- 1900年(明治33) 立憲政友会を結成して総裁になる。
- 1901年(明治34) この年までに4次の内閣を組織した。
- 1904年(明治37) 翌年にかけての日露戦争で元老として関わる。
- 日露戦争後、韓国統監府が新設され、初代統監になり、韓国に内政干渉した。
- 1909年(明治42) 統監を辞任したが、日露関係の調整のため満州に向かう途中、中国・黒竜江省のハルピン駅頭において韓国の独立運動家の安重根により射殺された。
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関連記事 |
- 2008.03.27=伊藤博文の韓国統治 日韓の研究者が再評価=朝日新聞
- 戦前の日本の朝鮮半島支配の象徴として韓国で厳しく批判されてきた伊藤博文。
- その人物像と韓国統治の実態をとらえ直す作業に、日韓の研究者が取り組んでいる。
- 日本は、日露戦争後に韓国の外交権を奪うなどして「保護国」とし、韓国統監府を設けた。
- 伊藤は1906年(明治39)〜1909年(明治42)、その初代統監を務めた。
- 韓国では「一貫して併合を推し進めた」とのイメージが一般的。
- 伊藤が韓国併合に消極的だったことには多くの史料的裏付けがある。
- 伊藤は初め、司法と行政の分立や、韓国独自の法典作りを進めるなど、韓国の「近代化」を目指した。
- しかし、日本が大韓帝国軍を解散させたことなどから反日の義兵運動が激化。
- 在韓日本人の間で併合を認める官僚への支持が高まる。
- 韓国では盧武鉉(ノムヒョン)政権時に、戦前の積極的な「親日派」の罪を暴き財産を没収した。
- 「韓国と日本での伊藤像は全く違うが、同じ人物。日韓で広く知られている伊藤の共通認識を探ることは、両国が理解し合う道筋をつけることにもつながるのではないか」と研究会の韓国側まとめ役の教授(政治科学)。
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- 2008.03.23=安重根の遺骨調査_勾留の地、中国・旅順で=朝日新聞
- 伊藤博文を暗殺し、朝鮮民族の英雄とされる安重根(1879年(明治12)-1910年(明治43))の遺骨を探す発掘調査が、中国・遼寧省大連市の旧旅順で始まる見通し。
- 処刑遺体の埋葬場所は謎とされてきた。
- 中国政府が韓国政府の要請を受け、調査を許可した。
- 日露戦争の激戦地として知られる旅順は、戦後も軍事施設が集中し、中国政府が外国人の立ち入りを規制してきた。
- 未開放地域で外国政府に発掘を許可するのは異例。
- 「安重根は我々中国人にとっても歴史上の重要人物だ」と地元当局者。
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■中央広間に伊藤博文の像がある国会議事堂(東京都千代田区)
2003/10/24 |
2011.05.29 |
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