- 桓武天皇は長岡遷都によって、新しい都を建設することで天平期(729〜49)以来の争乱と退廃、とりわけそれまでの平城京における寺院勢力から絶縁をはかり、新しい政治を目指そうとした。
- また人口増加による物資流通、水陸交通の利便さの必要など、遷都には種々の理由が考えられる。
- 造営が本格化した785年、事業の中心人物藤原種継(たねつぐ)が反対勢力によって暗殺される。
- 数人が暗殺にかかわったとして死刑、天皇の異母弟の皇太子早良(さわら)親王も捕えられ、無実を主張する親王は流罪で淡路への護送の途中、絶食して死亡した。
- 一方で蝦夷(えみし・日本の北方)征討により出費も多く、造営事業ははかどらなかった。
- 苦難の中で推進された造営事業も数年後には放棄され、新都平安京へ移転されることになる。
- 原因の一つに考えられるのは怨霊に対する恐れ。
- 早良親王の怨霊のたたりを思わせる奇怪な事件が相次いだ。
- しばしば洪水に見舞われるなど、都としての立地条件も悪かった。
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