- 1834(日本-江戸時代後期)〜1907(明治40)年
- 歴史
- シベリア東部のトボリスクに生まれ、未亡人の母が働いていた実家のガラス工場が、17歳の時火災に合う。
- 母とともにモスクワに行き、大学に入学しようとした。
- シベリア方言しか話せなかったので、入学を許可されず、ペテルブルグでロシア語を訓練する。
- ペテルブルグ大学に入学し化学を学ぶ。
- 1859年、ハイデルベルク大学に留学。
- イタリアの化学者スタニスラオ・カニッツァーロに出会い、彼の原子量に対する考え方に影響を受ける。
- 1863年、ペテルブルグ大学付属研究所の化学教授となる。
- 1865年、ペテルブルグ大学の一般化学教授となる。
- 当時、化学の良い教科書が無かったためわずか2カ月で書きあげ、元素を化学的性質によって体系的に分類しようと試みた。
- 1869(明治2)年、最初の周期表を発表する。
- 1871(明治4)年、改良版を発表。
- 改良版では未知の元素のために表に空欄があったが、3つの元素の存在を予言することで解決する。
- 後に、ガリウム、ゲルマニウム、スカンジウムの3種が次々に発見される。
- 1890(明治23)年、進歩的な政治方針と社会改革を支持したため、政府と衝突し大学を辞職。
- 1893(明治26)年、ペテルブルグにある度量衡局長官になり、没するまで務める。
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