マダガスカルの歴史 |
世紀 |
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時代 |
出来事 |
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平安 |
- マダガスカルの住民は、10世紀ごろにインドネシアやアフリカからこの島にやってきた人々の子孫と考えられている。
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戦国 |
- この島に最初に渡来したヨーロッパ人は、1500年にインドにむかって航海していたポルトガル人船長D.ディアスだった。
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17 |
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江戸 |
- 17世紀になるとポルトガル人、イギリス人、フランス人が相次いでmzv渡来し、植民地化を試みたが、いずれも失敗に終わっている。
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1642 |
- 1642年、フランスはマダガスカルに一時的に足がかりを得たが、1674年に追放された。
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18 |
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- 18世紀になってフランスは東海岸沿いに貿易拠点を確保したが、中央高地に住むマレー系のメリナ族の王国が台頭してきたことから、その勢力範囲は限られたものだった。
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19 |
1810 |
- メリナ王ラダマ1世がフランスに敵対していたため、その在位中の1810〜1828年にはイギリスが勢力を拡大する。
- イギリスの将校はメリナ族の軍隊の訓練にあたり、イギリスの宣教師は学校を建ててキリスト教の布教に努めた。
- ラダマ1世の没後、ヨーロッパ文化に対する激しい反発が起こった。
- それまで実施されていた改革が廃止され、宣教師は迫害され、イギリスとの通商関係も絶たれた。
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1869 |
明治 |
- 1869(明治2)年、女王ラナバロナ2世はキリスト教に改宗し、プロテスタントを国教とする。
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1885 |
- アフリカ分割を定めた1885(明治18)年のベルリン会議でフランス領となったが、カトリックのフランスに対する敵意が再燃。
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1896 |
- たび重なる反乱ののち、1896(明治29)年にフランスの植民地になった。
- 続く数十年間に様々な改革や改善がなされたが、フランスへの不満は高まり、19世紀後期から20世紀初期にかけて数度の反乱が起こった。
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20 |
1916 |
大正 |
- 1916(大正5)年、民族運動の組織が非合法化され、多くの活動家が投獄されている。
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1942 |
昭和 |
- 第2次世界大戦でフランス本国が陥落してから2年後の1942(昭和17)年5月にイギリスに占領されたが、1943(昭和18)年に同島の支配権はド・ゴールの自由フランス政府に返還された。
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1946 |
- フランスは1946(昭和21)年に制定された第4共和政憲法にもとづき、マダガスカルなどの保護領を海外領土とした。
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- 同憲法により、選挙で選ばれたマダガスカル人からなる州議会がおかれたが、その権限は制限されていた。
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1947 |
- 1947(昭和22)年3月、東部でフランスに対する大規模な民族運動が勃発したが、8月に鎮圧された。
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- その後フランス政府は、道路網の整備や石炭の採掘を計画的に実行し、経済改革に努めることを強調。
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1950 |
- 1950(昭和25-)年代になると、フランスはマダガスカルの自治を拡大する政策をとった。
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1951 |
- 1951(昭和26)年、52年、57年の選挙では、緩やかな独立への移行をとなえる候補者が支持を集める。
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1958 |
- 1958(昭和33)年9月28日の住民投票で、マダガスカルの有権者の78%がフランスの第5共和政憲法を承認。
- 続いて全州議会のメンバーで構成された議会で、マダガスカルはフランス共同体内の自治国となることを宣言、名称をマラガシ共和国と改めた。
- 11月1日、社会民主党のリーダー、フィリベール・ツィラナナが大統領兼国家元首に就任。
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1960 |
- 1960(昭和35)年年6月26日、正式に独立し、同年9月に国際連合への加盟が承認された。
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1972 |
- 10年間にわたって安定をたもっていた政治情勢は、1970(昭和45-)年代に入るとにわかに不安定になったが、1972(昭和47)年1月の選挙ではツィラナナが再選を果たす。
- しかし春になると、学生ストライキが全島をまきこむ暴動へと発展、ツィラナナは軍のクーデタによりガブリエル・ラマナンツォア少将に政権を奪われた。
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1975 |
- 1975(昭和50)年初頭、ラマナンツォアは軍部の不満分子によって政権の座を追われる。
- 同年6月、ディディエ・ラツィラカ海軍少佐が国家元首に任命されると、社会主義路線をとることを発表。
- 同年12月30日に国名をマダガスカル民主共和国とあらため、1976(昭和51)年1月4日、ラツィラカは大統領に就任し7年の任期を務めることになった。
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1970 |
- 1970(昭和45-)年代後半に悪化する経済のために政治不安が高まると、政府は反政府勢力に対する一連の警告や逮捕でそれに応じた。
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1977 |
- 1977(昭和52)年、80年、82年にクーデタ未遂事件があったと伝えられる。
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1991 |
平成 |
- 1982(昭和57)年11月と89年3月に再選されたラツィラカは、1990(平成2)年5月のクーデタを制圧したが、反政府デモの高まりを受けて、1991(平成3)年8月に民主改革に着手することを約束した。
- 同年11月に野党連合による暫定政府が発足し、1992(平成4)年8月の国民投票で新憲法が承認された。
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1993 |
- 1993(平成5)年2月の大統領選挙でラツィラカはアルベール・ザフィに破れた。
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1996 |
- 民政への移行後も、ラツィラカを支持する軍部の抵抗と、固定相場制から変動相場制への移行による物価上昇などによる社会不安がつづき、1996(平成8)年11〜12月の大統領選挙ではラツィラカがザフィに勝利し、政権に復帰した。
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1997 |
- 1997(平成9)年2月、新内閣が発足し国営企業の民営化を柱とする経済改革に取り組んだ。
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1998 |
- 1998(平成10)年3月に新憲法が国民投票にかけられ、かろうじて過半数の支持を得て承認された。
- 5月下院選挙が行われ、ラツィラカ大統領が率いるマダガスカル復興連合が63議席を獲得、連立与党が過半数を確保した。
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1999 |
- 1999(平成11)年6月、マダガスカル・フランが急落、世界銀行の融資をうけて危機を脱した。
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21 |
2001 |
- 2001年(平成13)年12月、ラツィラカの任期切れに伴って大統領選挙が行われ、近年穏やかだった島を大きく揺さぶる政治紛争が勃発した。
- 選挙には6人が立候補したが、現職のラツィラカと、実業家で首都アンタナナリボの市長マルク・ラバロマナナの戦いとなり、ラツィラカが40.89%、ラバロマナナが46.29%の票を獲得した。
- どちらも総投票数の過半数に達しなかったため、規定により決選投票がおこなわれるはずだったが、ここでラバロマナナ側の選挙監視団が不正開票を指摘し、彼の実際の得票率は52.15%であるとして、ラバロマナナの大統領当選を主張した。
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2002 |
- アフリカ統一機構の仲介による両陣営の話し合いも不調におわった翌2002(平成14)年2月下旬、ラバロマナナは首都アンタナナリボで一方的に大統領就任式を決行した。
- 一方ラツィラカは、島の東岸にあり、首都の生命線をにぎる港湾都市トアマシナに政府を移して対抗し、ここに2人の大統領、2つの首都が誕生するという異常な事態になった。
- ラツィラカ陣営は、港湾から首都への幹線道路を封鎖して兵糧攻めの挙に出、両者の軍事衝突も起きた。
- 旧宗主国のフランスは当初ラツィラカを支持していたが、6月にアメリカが突如ラバロマナナ政府を承認すると、アメリカに追随して立場を180度転回した。
- それによってまったく形勢が不利になったラツィラカは、7月に家族ともどもフランスに脱出し、事態は内戦にいたる前に収拾された。
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