ドイツ・歴史
ベルリンの壁
  • 1961(昭和36)年に建設が開始され、1989(平成元)年まで存続したドイツの東西ベルリンを隔てた壁で、冷戦の象徴だった。
  • 第2次世界大戦後、敗戦国ドイツは社会主義圏に属するドイツ民主共和国(東ドイツ)と自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)に分断された。
    • 東ドイツの中央に位置するベルリンは東西の2つに分けられ、東ベルリンは東ドイツの首都に、西ベルリンは事実上、西ドイツの飛び地となった。
  • 東ドイツは、ソ連を中心とする社会主義陣営の中で最も工業化が進んだ国として位置づけられ、それなりの繁栄を保証された。
    • 西ドイツはアメリカを中心とする経済援助を受け、驚異的な経済復興を遂げていった。
      • 西ベルリンは資本主義のショーウィンドーと呼ばれるほどに、高い生活水準を誇るようになった。
    • 東西ドイツの経済格差は、東ドイツ国民を西ドイツへの移住へと向かわせた。
      • 1949(昭和24)年に東西ドイツが建国されてから1961(昭和36)年の壁の建設までに、移住者数は270万人に上(のぼ)っている。
      • 労働人口の減少は、東ドイツ経済を脅かし、政治指導者たちにとっては国家存亡の危機と映った。
  • 1961(昭和36)年8月13日午前0時、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線を突然鉄条網で封鎖し、すぐさまコンクリートの壁を建設した。
    • 高さ4m、総延長166kmの壁がつくられた。
    • 後に国家評議会議長になるホーネッカーが壁建設の責任者だった。
    • 45kmが東西ベルリンを隔てる境界で、残りは西ベルリンを囲む境界となった。
    • 壁に接する建物の窓は煉瓦でふさがれ、壁は以後28年にわたって東西ドイツ市民を隔離した。
    • 西ドイツへの出国は厳しく規制され、離れ離れになった肉親が合うことも難しく、壁を乗り越えて西ベルリンに脱出しようとした人々は、東ドイツ警備兵に射殺された。
      • 壁を越えようとして死亡した人数は100人〜200人の間。
      • 成功者は5千人ほどいるという。
  • 1985(昭和60)年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、改革路線を推進したことは、東欧社会主義諸国に大きな影響を与えた。
    • 東ドイツ政府は改革にあくまでも反対の態度だった。
    • 1989(平成元)年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去し、東ドイツ市民はハンガリーとオーストリアを経由して西ドイツに移住することが可能となった。
    • 7月下旬からの2カ月のうちに5万人が国外逃亡した。
    • これを押し止(とど)めようとする政府の措置(そち)に反対して、東ドイツ各地で市民の大規模なデモが行われ、1989(平成元)年10月18日、国家評議会議長ホーネッカーは退陣し、クレンツ政権が発足した。
    • この間にもポーランド、チェコスロバキアがハンガリーと同様の措置をとり、ベルリンの壁は存在意義を失いつつあった。
    • 1989(平成元)年11月9日、東ドイツ政府は東西ベルリン間の交通を開放、たちまちのうちに壁は取り壊された。
    • 1990(平成2)年、東西ドイツは統一された。
    • ベルリンの壁の崩壊は、東ドイツだけでなく、ソ連や東欧の社会主義体制の崩壊の幕開けとなった。
  • 参考:エンカルタ2007
関連HP
ベルリンの壁
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ベルリンの壁1-6(YouTube)
ベルリンの壁2-6(YouTube)
ベルリンの壁3-6(YouTube)
ベルリンの壁4-6(YouTube)
ベルリンの壁5-6(YouTube)
ベルリンの壁6-6(YouTube)
2011.10.08

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