砂川闘争の記事 |
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未記入は朝日新聞 |
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2010.12.29 |
- 砂川闘争、今に
- 未公開の20枚含む写真集
- 迫る警官隊、逃げる学生
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2009.05.26 |
- 砂川闘争跡地に公園
- 国・立川市・住民の協議会 答申へ
- 衝突から半世紀 平和利用へ一歩
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2009.03.28 |
- 砂川事件 「米軍駐留は違憲」地裁判断
- 「伊達判決」50年
- 平和語るシンポ
- あす立川で元被告ら
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2009.03.12 |
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アサヒタウンズ |
2009.03.02 |
- 砂川事件 開示請求へ
- 元被告ら、逆転有罪を検証
- 日米密談を注視
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2008.12.06 |
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2008.10.03 |
- 砂川”法廷”闘争 読み解く集い
- 米大使と「密談」示す新資料
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2008.06.14 |
- 暮らし守る運動に焦点
- 戦後の「砂川闘争」など
- 記録映画2本上映会
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- 戦後の米軍基地拡張反対運動の原点としてしられる「砂川闘争」は、生活のために先祖伝来の農地を農民の手に取り戻す闘いでもあった。
- この時期には基地周辺のあちこちで、暮らしを守るための住民運動が起こっている。
- そんな先人たちの思いを記録した映画の上映会がある。
- 企画したのは、柏町4丁目で「ギャラリー茶遊(さゆう)」を営む吉沢エミさん。
- きっかけは、砂川闘争に関わった女性たちの思いに触れたこと。
- なかでも闘争の女性リーダーとして知られた、砂川ちよさん(1993(平成5)年没、享年93歳)の話は今もよく覚えている。
- 闘争が始まった1955(昭和30)年当時、すでに50歳を過ぎていたにもかかわらず、警官隊との衝突で先頭に立った。
- そこまで砂川さんを駆り立てたものは何だったのか。
- 戦時中、空襲で家も人も焼かれ、二度と戦争が起きる社会にしてはならないと痛感したこと。
- そしてもう一つは、基地拡張で農地を奪われれば、農民として生きる糧を失われるという切実な思い。
- しかし、砂川闘争の記録や映像のほとんどは基地拡張予定地の測量を強行しようと、国が警官隊を動員して反対農民と激しい衝突を繰り返した場面が中心。
- 「子育てをしながら留守を守り、抗議行動にも参加した農村の女性の働きなど、闘争を支えた日常の暮らしの部分が見過ごされている」と吉沢さん。
- 生活を守る闘いであるならば当時の暮らしを知ることも必要ではないか。
- 上映会を開く根底には、そんな思いがあるという。
- 上映される映画は2本。
- 基地拡張予定地の農村の暮らしぶりや闘争が全国に広がる様子を描いた「砂川の人々」(1955(昭和30)年)と、「町の政治−勉強するお母さん」(1957(昭和32)年)。
- 「町の政治」は、基地の影響で生活環境や治安悪化に悩む旧国立町の主婦らが取り組んだ町の浄化運動と、その後の政治参加の様子が描かれている。
- 関連HP→ギャラリー茶遊
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2008.04.25 |
- 砂川闘争の裁判資料 発掘
- 新事実示す内容も
- 国側の主張など残る
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- これまで知られていたのは米軍立川基地の拡張を阻止した反対農民らの証言記録が中心で、まとまった資料は存在しないとされていた。
- 資料からは、これまで語られることのなかった国側の主張や新事実をうかがわせる内容も読み取れ、関係者の間からは「地元立川市は責任を持って砂川闘争の記録をすべきだ」との声が上がっている。
- 当時は強制収用をめぐり国と地元砂川町が対立していた。
- 「国から来た文書を町は突き返し、住民は畑で燃やしていた。だから記録はない。これが常識だった」と砂川地区に住み、砂川闘争に関する証言集などを出した「砂川を記録する会」の星さん(64)。
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- 「砂川闘争」に新資料
- 米軍基地拡張を地元住民阻止
- 立川の図書館 全体知る手がかりに
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- 「砂川闘争」の全体像を知る手がかりになる資料が、立川市中央図書館に未整理のまま保管されていることが分かった。
- 全国の基地反対運動の原点とされる砂川闘争だが、粘り強い反対運動のまとまった資料は、これまで残っていないとされていた。
- 砂川闘争は、警官隊と反対派が衝突した1956年(昭和31)秋の「流血の砂川」で知られる。
- 米軍に接収された農地の返還を求め、同年に住民が国を訴えた「土地返還訴訟」では、滑走路を畑に戻して無条件返還するという画期的な和解が1976年(昭和51)に成立した。
- 今回見つかったのは主に裁判飼料でファイル約100冊分。
- 米軍が国有地と勘違いして農地を接収し、その後日本政府を通じて改めて住民から借り上げた賃貸借契約書など、これまでほとんど知られていなかった事実の資料も含まれている。
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2008.01.31 |
- 砂川闘争跡 活用へ一歩
- 住民が初会合 具体化期待
- 09年度までに「計画」
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- 事態が動いた背景には2003年(平成15)、国が国有地の積極利用に方針転換したことが大きい。
- 以前は暫定的な公共利用以外の利用は認めなかった。
- 加えて砂川町の地元地権者からなる「砂川中央地区まちづくり推進協議会」が2007年(平成19)、条件付きで協議のテーブルにつくことに合意し、初会合につながった。
- 砂川闘争は1955年(昭和30)、旧米軍立川基地の滑走路延長計画に地元農民らが反対して起きた。
- 米軍が計画を断念し、国が中止を決めた1969年(昭和44)に歴史上、終結している。
- だが「跡地の平和利用がかなわなければ、闘争は終わらない」と地権者に一人。
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2008.01.29 |
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- 「砂川闘争」
- 1955年(昭和30)5月、アメリカ軍立川基地の滑走路延長計画が示されると、地元の旧砂川町(今の立川市北部)の住民らが「砂川町基地拡張反対同盟」を結成。
- 国の強制測量をめぐり警官隊と衝突を繰り返し、1956年(昭和31)秋に多数の負傷者、逮捕者を出した。
- 地権者約130世帯のうち23世帯は最後まで買収拒否を貫き、米軍は1968年(昭和43)、延長計画を撤回。
- その後横田基地への移転を発表し、1977年(昭和52)、立川基地は全面返還された。
- 「砂川闘争」の舞台となった土地の利用計画を巡り、立川市と地元住民が話し合いのテーブルにつく。
- 闘争から半世紀以上経つが、恒久的な跡地利用に向けた初めての一歩。
- 返還された旧米軍立川基地跡地の北側、立川市砂川町の約20ヘクタール。
- 約15ヘクタールは1955年(昭和30)から約10年間かけて、基地拡張のため国が買い取った国有地。
- 基地拡張に反対して買収を拒んだ地元住民の土地と混在する。
- 反対運動の激化で当時測量が行われなかったため、境界がはっきりしない場所も多い。
- このため基地返還後も、跡地利用されず放置されていた。
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2007.05.21 |
- 平和憲法 尊さ見直そう
- 砂川闘争の元立川市議 あす講演
- 立川基地返還30年 改正論議に危機感
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- 旧アメリカ軍立川基地の拡張をめぐり、地元農民らが反対した「砂川闘争」。
- 当時、デモ隊の最前線にいた立川市の元市議会議員、島田さん(68)は、そこで多くを学んだ。
- 恒久平和と戦争放棄をうたう憲法の尊さ、日米安全保障条約との矛盾−。
- 激しい闘争を経て、拡張を断念した立川基地が全面返還されて今年で30年。
- 1957年(昭和32)7月8日、基地拡張のための測量を阻もうとしたデモ隊が立ち入り禁止の柵を壊し、基地内に入ったところで警官隊と衝突。
- 後日7人が逮捕、起訴された。
- 「砂川事件」として歴史に刻まれたその日、19歳の誕生日を迎えた島田さんは腕を組んだデモ隊の最前列にいた。
- 警官隊と装甲車を前に恐怖をこらえていた。
- 戦争の惨禍を教訓に、憲法9条は武力行使を放棄し、戦力の不保持を明記した。
- だが敗戦の5年後に起きた朝鮮戦争で、米軍は立川基地などを出撃拠点にした。
- 「日本は再び戦争に加担しているじゃないか」
- 米軍の駐留が1951年(昭和26)に締結した日米安全保障条約によるものと知り、憲法との矛盾を感じた。
- そんな折、兵庫県出身の島田さんは「砂川闘争」と呼ばれた一連の基地反対闘争を知った。
- 東京の大学に進学し、闘争に参加。
- そのまま立川に移り住み、27歳の時から約30年間、市議として立川基地の撤退と跡地の平和利用を訴え続けた。
- 幼少だった大戦中、焼夷弾に焼かれる街中を、母親の手を握って逃げ延びた。
- 戦争をしない、武力は持たないと約束してくれた憲法のありがたさが身にしみている。
- 「砂川闘争の頃は、平和の重みを誰もが実感していた。今は憲法に込められた平和への思いが人々から薄らいでいないか」と話す。
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2007.05.02 |
- かつて立川は基地の街だった
- 砂川闘争の記憶、DVDに
- 全面返還から30年
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- 立川市と昭島市に広がる旧アメリカ軍立川基地。跡地には国営昭和記念公園や高層ビル群などの開発が進む。
- かつて同基地の拡張計画に反対した「砂川闘争」を風化させまいと、住民らは活動を続ける。
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