後醍醐天皇 ごだいごてんのう
  • 鎌倉幕府を倒し、南朝をひらいた第96代とされる天皇。
  • 1288(鎌倉時代中期)〜1339(南北朝時代)
    • 在位1318〜1339年
  • 和歌や学問にも造詣(ぞうけい)が深く、強烈な個性の持ち主で、20人前後の女性に40人近い子を生ませたという。
    • 中国、朱子学に傾倒し、早くから天皇による親政を目標としていた。
    • 平安時代中期の醍醐・村上両天皇の代の政治を理想とし、死後におくられる天皇号を、生前に自ら後醍醐と名のった
    • 政治の革新に努め、武芸や学問の振興をはかった。
  • 鎌倉幕府の打倒を計画し、1324(正中元)年、正中の変、1331(元弘元・元徳3)年、元弘の乱に失敗して隠岐(おき)(島根県隠岐島)に流されたが、護良親王(もりよししんのう)楠木正成らの反幕勢力が力を得ると脱出して討幕運動を指導した。
    • 足利尊氏らの協力で幕府を滅ぼすと、帰京して政権を樹立し、建武(けんむ)の新政を開始した。
      • しかし、新政はあまりに独裁的・急進的だったため、武将や貴族たちの反発を買い大きな混乱をもたらし、1335(建武2)年には足利尊氏が離反した。
    • 以後、新田義貞を立てて戦ったが、1336(延元元・建武3)年、尊氏の強請により三種の神器を持明院統の光明天皇に渡し、まもなく大和南部の吉野に移って南朝をひらき、以後、南北両朝の併立時代に入るが、孤立のまま死去した。
  • 参考:エンカルタ2007
2010.08.03

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