- 1288(鎌倉時代中期)〜1339(南北朝時代)
- 和歌や学問にも造詣(ぞうけい)が深く、強烈な個性の持ち主で、20人前後の女性に40人近い子を生ませたという。
- 中国、宋の朱子学に傾倒し、早くから天皇による親政を目標としていた。
- 平安時代中期の醍醐・村上両天皇の代の政治を理想とし、死後におくられる天皇号を、生前に自ら後醍醐と名のった。
- 政治の革新に努め、武芸や学問の振興をはかった。
- 鎌倉幕府の打倒を計画し、1324(正中元)年、正中の変、1331(元弘元・元徳3)年、元弘の乱に失敗して隠岐(おき)(島根県隠岐島)に流されたが、護良親王(もりよししんのう)や楠木正成らの反幕勢力が力を得ると脱出して討幕運動を指導した。
- 足利尊氏らの協力で幕府を滅ぼすと、帰京して政権を樹立し、建武(けんむ)の新政を開始した。
- しかし、新政はあまりに独裁的・急進的だったため、武将や貴族たちの反発を買い大きな混乱をもたらし、1335(建武2)年には足利尊氏が離反した。
- 以後、新田義貞を立てて戦ったが、1336(延元元・建武3)年、尊氏の強請により三種の神器を持明院統の光明天皇に渡し、まもなく大和南部の吉野に移って南朝をひらき、以後、南北両朝の併立時代に入るが、孤立のまま死去した。
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